2年半の長きに渡る火山活動及び地震の影響で、太古の恐竜時代さながらに、大怪獣たちが跋扈する原始世界に成り果ててしまった多々良島。その弱肉強食世界にあって、怪獣の中の“怪獣王”として君臨する古代怪獣だ。性質は凶暴で、極めて好戦的。科特隊一行が島に到着したときは、有翼怪獣チャンドラーと死闘を繰り広げており、右腕を負傷しながらもチャンドラーの右翼をもぎ取って敗退させた。また咆哮だけで地底怪獣マグラーを退散させていることや、威風漂うその姿からも、島の“怪獣王”たる地位が窺えよう。発達した躍動的体躯からも判るとおり怪力無双を誇り、巨大な岩石を軽々と持ち上げて滅多矢鱈に投げつける。この攻撃によって、ピグモンを死に到らせた。だが逞しい体つきに較べて頭部は小さく、単純戦法一点張りからも知能の低さが窺い知れる。別称“どくろ怪獣”の名が示すとおり、人間の頭蓋骨を髣髴とさせる顔つきが不気味だ。ウルトラマンに対して、突進戦法で戦いを有利に展開。得意の岩石投げを試みるも、持ち上げた大岩がスペシウム光線によって自身の足に落下、劣勢に転じてしまう。弱まったところを、ネックハンギング、ジャイアントスィングと間断無く攻め込まれ、トドメの首投げで倒された。後に日本アルプスにも出現するが、顔つきや体色の違いから判断して別個体と思われる。
頑健にして豪壮。堅牢なる壮観。徹頭徹尾勇壮雄大。剛堅、硬骨、壮健、頑強、剛健...どれだけの美辞麗句を弄し、飾り立て宣巻き散らそうとも、この怪獣の身体髪膚は筆舌に尽くし難い。幾重ものブロックの積重が全身を構築、蛇腹状の肌理が剥き出しになったテクスチャーに見るものは圧倒され、眩惑に昏迷し、亡羊の嘆、途方に暮れるのである。
レッドキング。まさに“キング”の名を号するに相応しい怪獣の王。デザインを手がけたのは、『ウルトラQ』の頃より幾多の傑作怪獣を生み出してきた成田亨だ。まるで一個の建築物のようなレッドキング。前衛美術家である成田は、シュルレアリスム絵画技法のひとつである“オートマティスム”を駆使したハイブリット効果によって、数々の「有り得べき」架空生物の異形を創造してきた。それらはみな、有機的融合に彩られた魅力溢れる「具象」だ。しかし成田はこのレッドキングに到り、中世建築様式のエレメントを織り込むことで、“荘重雄大”という表象を抽出しようと目論んだのである。
レッドキングの身体を構成する蛇腹構造。緊密に積み重ねられたブロックの重畳は、バロック建築のように荘重で力感に富む。古典的な調和と均整を理想とするルネサンスが「静的」とするならば、劇的迫力に満ち満ちたバロックは「動的」だ。夥しいブロックの層はリズムを以って連なり、頭部への視点の移行に伴って、ブロックのひとつひとつが「大」から「小」へと流麗なグラデーションを見せる。あたかもクラシック楽曲の変調の様を目で追うようであり、これがバロックの持つ「動的」性格でなくて何であろうか。
また頭頂に向かって先細るシルエットは、ゴシック建築様式の特徴に見られる尖頭アーチのようだ。先にも触れたブロックの段階的変化によって、単一個体上に近景と遠景が同居した擬似的なパースペクティブ効果が生じる。これが壮麗な結構の正体であり、強調された仰高性が印象的だ。遥か高みを見上げるということは、すなわち宗教的精神性に繋がり、つまりそれこそがゴシック建築様式の本懐なのだ。レッドキングが“荘厳”たる所以である。
バロックとゴシック。その形式と観念を身に纏う怪獣王。それまでは「生あるもの」、若しくは岩石や雲などの「自然物」をモチーフとして、様々な怪獣の有り様を提示してきた成田。いよいよその食指は、人間が作り出した造型物やそれに伴う心象の域へと動き出したのである。
ブロック、ブロック、ブロック...魚類や爬虫類の鱗のように、体表を覆うブロックの折り重なり合い。何と刺激的な試みであろうか。この特徴的な構造は、ファンの間では親しみを込められて“成田ブロック”などと呼ばれたりする。
この“成田ブロック”の原初的な形を、『ウルトラQ』に登場したピーター(第26話)の体表に見ることができよう。六角ナットを髣髴とさせる半立体的な凸が無数に連なり、そのリズミカルな調子は四肢や尻尾などの末端部位に向かって「大」から「小」への階調を呈している。パターンを構成するブロックの形状は著しく異なるものの、配列の構造自体はレッドキングと相似だ。もっともピーターは爬虫類(カメレオン)をモチーフとしてデザインされているので、ブロックと言うよりは鱗と捉えた方が妥当である。末端部位に伴う構成素材の変化も、爬虫類として当然のグラデーションだ。だがこの極めて有機的なパターン構造が、レッドキング特有の建築様式的パターンに転化されたと言っても決して過言ではなかろう。
レッドキング以降の“成田ブロック”に、目を転じてみよう。同じ第8話登場の地底怪獣マグラー。これもまた成田ブロックが織り成す、見事な階調の持ち主だ。マグラーの場合は脇腹から背面に向かって、ブロックがトゲへと変容する。地味な怪獣ではあるが、そのハーモニーが実に美しい。またマグラーはそもそもが縫いぐるみ流用怪獣なので、腹と前肢にはテクスチャーが施されていない。だがそれも腹這い生物のリアリティとして、巧い具合に作用していると言えよう。是非注目していただきたい。
そしてもう一体、成田ブロックの代表例としてゼットン(第39話)を挙げておきたい。ブロックの重なり合いが織り成すパターン構造は、その四肢に見ることが出来る。蛇腹構造部の白と、それを覆う甲冑のような黒。そのコントラストが眩しい。ゼットンの成田ブロックがそれまでのものと決定的に異なる点は、レッドキングやマグラーのブロックが外皮として意匠されたのに対し、ゼットンのそれは明らかに「近未来」や「宇宙」といったイメージの具現として用いられたことにある。“ブロック”というひとつの素材を以って、形態や機能、そして象徴へと自在に使い分ける成田。こういった飽くなき試みから、ひとつどころに落ち着かない千変万化な怪獣たちが滾々と生まれ出でたのである。成田怪獣が“凡庸さ”とは無縁たる所以だ。
そして更に付け加えるならば、メフィラス星人(第33話)の下半身やギラドラス(『ウルトラセブン』第20話)の体表に施されたパターン模様も見過ごせまい。構成体のひとつひとつはピラミッド型の四角錐であり、ブロックとは形状を著しく異にするが、これらも成田ブロックのひとつの転用例として位置づけられよう。レッドキングが放つ躍動的なグラデーションは無いものの、整然とした羅列に目を奪われるのは必至だ。
“成田ブロック”を身に纏う数々の怪獣たち。だが全身隈無くその要素だけで覆い尽くされた怪獣は、レッドキングを置いてほかにはいない。肢体に剥き出された凸と凹のせめぎ合い。抜群のインパクトだ。後続のブラックキング(『帰ってきたウルトラマン』第37・38話)やアリブンタ(『ウルトラマンA』第5話)などのいわゆる“ブロック積み上げ怪獣”は、全てこれの踏襲に過ぎない。そういった意味合いにおいてレッドキングは、パターン構造だけで形作られた成田怪獣のパイオニアであり、誕生した時点で既に至上であったのだ。
ここで本邦初の「怪獣」にして至上の存在である“怪獣王”、ゴジラ(1954年)に目を向けてみよう。漆黒のゴジラもまたその体表を、ゴワゴワとした夥しい結節と言おうか、起伏のモールドでびっしり覆われている。それは極めて生物的であり、もちろん構造建築物のような意趣を持ったレッドキングとは大きく異なるのだが。しかしインパクトの強さの淵源を鑑みたとき、やはりその「過剰な折り重なり合い」による体表のテクスチャーを無視することはできない。極めて通俗的な恐竜体型を成すゴジラが、それでも“異形”呼ばわりされる所以は、押し並べてこの質感の「晒し」に因る。そう、剥き出しにされた「触感」がゴジラを形作っているのであり、その「ゴワゴワ」ないし「ザラザラ」が“ゴジラ”という象徴へ還元されるのだ。
ゴジラと、そしてレッドキング。“怪獣王”を冠するに相応しい形姿、恰幅、そして風格。その威風を形作っているのは、有機的な起伏の緊密なパターンであったり、また幾何学的な多面体の積重であったりと、意趣はそれぞれだ。しかしいずれにせよそのラジカルな裸出が、見るものの琴線を直撃し、かくて畏敬は喚起させられるのである。
さて成田亨が描いた図面をもとに、実際に「堅牢なる城」を施工したのは、成田との“ゴールデン・コンビ”で知られる高山良策である。ちなみにレッドキングは、アントラー(第7話)に続いて製作された、高山造型による『ウルトラマン』怪獣の第2号だ。そして更にはレッドキングが完成しないまま、ベムラー(第1話)を受注している。『ウルトラQ』怪獣の造型を最後に手がけてから、約半年の間を置いて再開された高山工房の怪獣製作現場。矢継ぎ早な受注から推して、往時の繁忙さが窺えよう。だがそれよりも、アントラーやレッドキング、そしてベムラーと、陸続生み出される活溌溌地な怪獣たちの姿そのままに、高山と工房の活況する息遣いが伝わってくるようだ。
成田が意図したバロックとゴシックが織り成す眩惑の仕掛けに対して、高山は見事な解釈と造型力で以って応えている。レッドキングの荘重雄大な体躯構造については、これまでさんざん述べてきた。一般的に認知されている作品内のレッドキングとは、すなわち高山が造形した実物であり、成田によって描かれたデザイン画ではない。よって実際にフィルム化された作品を見ていただければ、レッドキングのボディについて殊更これ以上語る必要も無いだろう。まるで“トウモロコシの黄金の実り”を纏ったような肢体。「大」から「小」へ或いは「小」から「大」へと、その大きさを段階的変化させる実りの一粒一粒。それらが群雄割拠し、流麗なラインを描き、躍動し、そして美しい旋律を奏でる。それがつまり、我々が知るレッドキングなのだ。
それではその目を、レッドキングの頭部に転じてみよう。尖頭アーチの構築構造が呈する「高み」とはすなわち、ゴシック建築様式では「崇め」の意味合いを持つ。仰ぎ崇めるその突端に鎮座する頭部は、Aラインの頂点であり、末広がりの身体に較べて極めて小さい。「ちょこなん」と、まるでピーナッツが乗っかっているようだ。宗教的観点からは、「神なるものは容易に見えざるもの」という作為的な“勿体付け”もあろう。またこの“怪獣王”にあっては、多々良島における食物連鎖のピラミッド、その頂点の象徴として捉えることが出来る。ともあれここで先ず触れておきたいのは、その小さき頭に付いた「顔」、その細工だ。
“どくろ怪獣”の異名の由来となったドクロ顔。白目の無い眼は穿たれた孔のようであり、虚空のような黒はその闇の深さを物語る。「凶暴」という性格以前に、この眼が放っているのはドクロに付き纏う「虚ろさ」だ。またつるっとした坊主頭やブタ鼻、口角の上がり具合、そして白色系の色合いなどと併せて、レッドキングの顔を真正面から見れば、なるほどそこにしゃれこうべが現われる。だが果たしてデザイン画の段階において、成田にそもそも“どくろ怪獣”としての意図はあったのだろうか?
蛇腹構造を剥き出しにした意趣は、骨格構造の露出を髣髴とさせ、確かに「骸骨」と言えなくもない。レッドキングを「外骨格生物」と位置づければ、それなりに合点もいこう。だが成田によるデザイン画を見る限りは、その顔に「どくろ」としての意図は全く感じられない。したがっておそらくは、高山造型のたまたまの結果、その後付けであろうと思われる。
先の尖った頭頂部から口腔へ向かって広がる三角形状の頭部は、知能の低い生物の頭骨に肉付けされたものとしてもっともらしい。めくれ上がり気味の口から外側に飛び出した牙と歯列は、レッドキングの攻撃的な性格に直結しよう。また目の周りに施された鱗状のひび割れ、かなり後方まで裂けた口の端の微妙なシワ、こめかみから眉宇にかけた“庇”の綾などなど...大胆なモールドの羅列を呈するボディ部とは、極めて対照的な顔の細工の精緻さ。ダイナミックとデリケート。そのせめぎ合い。そしてコントラスト。レッドキングが放つ眩惑の正体を、こういった視点からも見て取ることが出来よう。
ちなみに、レッドキングの頭部に施された口や眼球のギミックは、全て高山の手製によるものだ。口を開閉させるための仕掛けを、小さい頭部に仕込むことにかなり苦労したらしい。その苦心の様子が、緻密なギミック設計図とともに、数葉のスチール写真として残されている。レッドキングの小さな顔を抱える思案げな高山の表情が、実に印象的だ。
では「顔」の細工の最後として、先にも挙げた「眼」についてもう一度触れておきたい。その眼が虚ろであることは既に述べたが、それは爬虫類などの自然生物が放つ「無為」にも直結する。たとえば当たり前のことだが、捕食動物は獲物を捕らえる際に、特別な「害意」を持って臨んでいる訳ではない。生きるための必然の行為だ。したがってその瞳に、「害意」なり「悪意」の光を宿しようもない。生殺与奪の権利を与えられた“無垢けき眼”だ。成田・高山コンビが生み出す生命の眼には、押し並べてこの無垢けき光が宿っている。これが“ゴールデン・コンビ怪獣”の特筆すべき点であり、両氏の畏怖すべき点だ。
怪獣の凶暴性を端的に表現しようとすれば、たとえば吊り目などは効果的であろう。決然たる活殺自在の意志を持った「悪者」であれば、作為的に施された吊り目は「悪意」の表明について記号として作用する。だが成田・高山が生み出してきたのは、怪獣である前に一個の生命体だ。人間に害は及ぼすものの、確固たる「害意」が有る訳ではない。他の生命を奪ったり、また害を及ぼす際の眼は、全く以って事も無げで無垢だ。この「罪意識の無い眼」こそが自然生物における怖さの源泉であり、ときとしてそれは「悪意ある眼」を凌駕する。このことに成田・高山が、無頓着であった筈が無い。空想の産物とは言え、一個の生命を生み出すのである。それは刺激的な仕事であるとともに、厳かであるべきなのだ。
さて、レッドキングの縫いぐるみ製作の最後に、その絶妙な色合いについて触れおこう。造型作業の仕上げとして、“塗装”もまた怪獣を形作る大事な工程だ。生きている造型が、彩色如何で死ぬこともあろう。まさに「画竜点晴を欠く」だ。レッドキングにおける命づけの締め括りは、果たしてどのように行われたのであろうか?“トウモロコシの黄金の実り”とも言うべき、あの「黄」と「青」が織り成す幻惑的色彩の正体は?
凸が屹立し凹と激しくせめぎ合うレッドキングのボディ。高山は先ず、黄色系と青色系のスプレー塗料で全身を塗布している。レッドキングのイメージを決定付けている、かくも有名な色調、その土台だ。スチール写真などを見れば判るが、主体である黄色に対して、起伏間の狭い溝を縫うように青が走っている。それはちょうど、渓谷を浸食する川の流れのようだ。これによって「凸部は黄、凹部は青」という秩序ある色彩構成が確立し、黄と青の明度の違いが起伏の高低差として見るものに作用する。成田が意図とした「単一個体上のパースペクティブ」は、この羅列と重畳によって完遂するのだ。
だがこれで“レッドキング色”が完成した訳ではない。実際にフィルム化された作品に登場するレッドキングには、不思議なメタリック感がある。特に納品間もない時期のモノクロ写真では、白黒であるが故にそのギラつきが顕著だ。これは高山が好んで使用したパール塗料によるものである。黄色と青色のスプレー塗装を施されたレッドキングには、文字通り最後の仕上げとしてこのパール塗料がまぶされたのだ。
ちなみにこのパール塗料は、太刀魚の鱗を粉にして精製したもので、昭和当時かなり高価であったらしい。高山自らは「余業」と主張していた怪獣縫いぐるみ製作だが、この凝り様はどうだろうか?自身の美術的嗜好がそのまま、怪獣製作にも反映されていたことは疑う余地も無い。高山の描く絵画世界と自ら手がけた怪獣との間に、連続性を感じ取ること自体にさしたる不自然さは無いのである。
以上が“レッドキング色”のあらましだ。黄と青のハーモニーを遠くから見れば、青の筋が黄に融け込み、はっきり「何色」とは言い難い色調を形成する。そして太刀魚の鱗を由来とする、ギラついた透明な膜。この表層を透過した光は、下地の黄と青に反射して更に絶妙な精彩を放つのだ。荘重雄大な建築物としてのレッドキング。一瞬「白銀」と見紛う荘厳さは、黄と青と魚鱗、そして光との複雑な絡み合いによって形作られるのである。
かくも美しい風格を呈するレッドキングのボディはその後、大胆にもグリーンの塗装を施され、頭部を挿げ替えられてアボラス(第19話)に改造された。そして更には金色に再々塗装され、新調された頭部と併せて“レッドキング2代目”(第25話)とされている。あまりにも有名な縫いぐるみの流用改造例で、殊更説明するまでもないが、一応付記しておこう。
尚、国産初の16ミリフィルム撮影による『ウルトラマン』では、怪獣の彩色については試行錯誤の連続であった。ブラウン管を通して意図とした色合いを出すために、当初の色彩設計よりも派手目な色の塗装を以ってフィルムへの定着を試みている。回を重ねるごとに、怪獣の色合いはより原色に近いものに設計され、殊にツートンカラー構成におけるコントラストはより激しくなる傾向にあった。レッドキング2代目が金色になったのは、そのような理由によるものと考えられる。
凶暴且つパワフルなレッドキングを演じたのは荒垣輝雄だ。『ウルトラマン』において実に16体もの怪獣を演じた荒垣は、怪獣役者の代表格である。また演じた怪獣も人気怪獣・レッドキングのほかに、ベムラー(第1話)やジャミラ(第23話)、そしてゼットン(第39話)など、『ウルトラマン』という作品を象徴するものが多く、その実績を鑑みてもウルトラ怪獣の「顔」と言えよう。
しかし意外にも、怪獣体型として王道とも言うべき有尾二足歩行型の、いわゆる“恐竜体型”怪獣を演じた回数は少ない。レッドキングのほかには、ベムラー(第1話)とジェロニモン(第37話)と、合わせて僅か3体を数えるばかりである。何となれば荒垣怪獣の特色として、ドドンゴ(第12話)・ペスター(第13話)・ブルトン(第17話)などの特異な形状を持つものや、またガマクジラ(第14話)・ガヴァドン(第15話)・グビラ(第24話)のように四足歩行のものなど、形態のバラエティさが挙げられよう。
さて“荒垣レッドキング”は劇中、持ち上げた岩を自身の足に落してしまい、頭を抱えて悶絶するというコミカルな一面を見せる。このように極めて擬人化された動きは、度が過ぎれば折角の作品世界を壊しかねない。そういった意味合いにおいては、荒垣レッドキングの苦悶の仕草などは適宜に演じられたものであり、その厭味の無さからは怪獣役者としての力量と配慮が窺えよう。また“荒垣ギャンゴ”(第11話)については、まさに度が過ぎた擬人化の動作を見せる。しかしギャンゴという怪獣の性格を考慮すれば、その演技プランは実に適正だ。“荒垣レッドキング”と“荒垣ギャンゴ”。両荒垣怪獣なくして、それぞれの名バトルは有り得なかったであろう。
バルタン星人とともに超人気を誇る名怪獣・レッドキングは、まあバルタンほどではないが、幾度かの再登場を果たしている。早くは同『ウルトラマン』の第25話から、最近では2007年の『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』まで、10回を越える登場回数はさすが人気者の面目躍如と言ったところであろう。
バルタン星人の時代による変貌振りに較べて、レッドキングの姿は一貫して殆んど変わっていない。ただ『ウルトラマンパワード』に登場した“パワードレッドキング”の雄だけは、体色を赤とされた点が異例であった。(但し雌は初代と同じ黄色) また「身体の一部分(足)だけがレッドキング」という、タイラント(『ウルトラマンタロウ』第40話)の場合は極めて特異な例である。そういった特例を除けば、縫いぐるみ造型における技術や条件の違いも有ろうが、兎に角あのブロックが連なった蛇腹構造は不変だ。完成された王者の姿には小細工は不必要、アレンジの入る余地も無い。その証左である。
レッドキングがほかの“頻出怪獣”に比して突出している点は、極めて好戦的であるということだ。それはウルトラヒーローとの戦い以外にも、その前哨戦として数々の怪獣との対戦を繰り広げたことに顕著である。多々良島におけるチャンドラー戦を皮切りに、2代目の対ドラコ戦、またパワードレッドキングはこの2戦を踏襲し、『ウルトラマンマックス』ではサラマドン戦・パラグラー戦という連戦を勝利で飾った。そして怪獣同士の死闘が描かれた『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』では、全13回という少なさにも関わらず3度も登場している。怪獣バトルの覇者・レッドキング。初出のチャンドラー戦における凶暴さのインパクトが、その後のレッドキングの役割を決定付けたと言えよう。
言うまでもなく“ウルトラ”は、怪獣たちが跳梁跋扈する世界観に彩られている。そのような作品性において、複数の怪獣が登場するエピソードは、発信側の使命であり“サービス品”として欠かせない。“怪獣の王者”たる風格を備えたレッドキングは、「怪獣無法地帯」の如きエンタテイメント作品にこそ相応しく、請け負った役目の真価も発揮されるというものだ。凶暴な怪獣たちがのし歩く無法地帯の中にあって、他の怪獣を遥かに凌ぐ膂力。言わば“怪獣トーナメント”なる激闘を勝ち残り、最後にはウルトラマンと勝負を決するといったシチュエーション。この常套に、見るものは熱狂するのである。
尚、『ウルトラセブン』の企画段階において、レッドキングはカプセル怪獣として登板する案が検討されていた。また同じ『ウルトラセブン』の未映像化作品・「宇宙人15+怪獣35」の中では、怪獣同士の殺し合いを征した最終5強怪獣の一匹として、レッドキングは生き残る。いずれも幻で終わってしまったが、「怪獣対怪獣」が描かれるエンタテイメント作品において、好戦的なレッドキングはその象徴として登場が必須であったのだろう。
1970年代にいわゆる“第2期怪獣ブーム”が勃興し、それに伴い「怪獣図鑑」などの百科ものが人気を博した。これによって怪獣たちの中には、劇中で語られることのなかった、言わば「架空の設定」を付与されたものが見受けられるようになる。それらは実に荒唐無稽なものであった。有名なところでは「ツインテールは食べるとエビの味がする」などが有り、その刺激的且つケレン味溢れる後付けは、当時の子どもたちに熱狂的支持を以って受け入れられていたのである。
怪獣間における架空の血縁関係なども、そういった後付け設定のひとつの特徴だ。強引とも思えるその方便は、レッドキングと、全く別のシリーズに登場したブラックキング(『帰ってきたウルトラマン』第37・38話)とを兄弟にしてしまった。名前の相似性と、体躯構造に見られる特徴の共通性。そこからの発想であろう。この他にも、『帰ってきたウルトラマン』のアーストロン(第1話)とゴーストロン(第8話)、『ウルトラマン』のテレスドン(第22話)と『帰ってきたウルトラマン』のデットン(第3話)などが、こういった後付けの血縁関係として挙げられる。どの怪獣も初登場した際には、ほかの怪獣との血縁性については一切触れられていない。そもそもそんな意趣を以って考案されたものでは、決してなかったのだから。
ブラックキング・アーストロン・ゴーストロン・デットン。後付けによる擬似的な血縁怪獣が、とかく『帰ってきたウルトラマン』に集中して登場していることに注目してみよう。また後付けではなく、たとえばシーモンス・シーゴラス(第13・14話)やバルタン星人Jr.(第41話)のように、端から実際の(と言うものも変な話だが)家族関係を持って登場した怪獣も、『帰ってきたウルトラマン』の頃から頻出するようになる。それ以前のウルトラでは、概して見られなかった現象だ。
怪獣の超越性が失せ、見るもの、すなわち子どもたちへの迎合が始まったのだろう。「ぼくたち怪獣は君たちと同じ、親もいれば兄弟もいる」と、そんな声が聞こえて来るようだ。“第2期怪獣ブーム”の正体とは、大人側から押し付けた「無理矢理な親近感」ではなかったか。緊密さ、身近さ、等身大。そのようなキーワードで取り囲まれた状態が、当世風怪獣の在り方であったのだろう。もちろんそれまでにも、カネゴン(『ウルトラQ』第15話)のように「親しみある」怪獣が居たには居た。だが2期のそれは過剰であり、子どもに諂った作為を感じ取れるのが特徴だ。
子どもが自分自身を投影できる、怪獣の血縁関係。もはや怪獣は、超越的な存在ではなくなったのだ。兄弟怪獣、親子怪獣、夫婦怪獣、親戚怪獣、怪獣家族。これと同じ道筋を辿った“ウルトラ兄弟”の発生は、極々自然な流れとして受け止められよう。
ウルトラ怪獣最大の謎のひとつに、“レッドキング”の名付けがある。白色系の怪獣なのに、何故“レッド”キングなのか?怪獣ファンであれば、当然誰もが疑問を抱いたことであろう。実はこれについては諸説がある。以下に敷衍して考察してみよう。
先ずよく言われるのは、『ウルトラマン』の企画段階でのタイトル・『レッドマン』に由来しているという説だ。すなわち、『レッドマン』に登場する怪獣の王様(キング)だから“レッド・キング”ということである。ちなみに、『レッドマン』の“レッド”のスペルは「Led」だ。この「Led」が、発光ダイオードを指す「LED(light-emitting diodeの略、一般的にエル・イー・ディーと呼称される)」のことなのか、また「導く」という意味である「lead(リード)」の過去分詞形・「led(レッド)」のことなのかは定かではない。“ダイオード”という素材は、昭和当時にあっては近未来的なものであっただろう。現にウルトラマンのカラータイマーには、このダイオードが使用されている。またレッドマンが「人類を導く」存在であるという観点から、「led」説も有力と言えよう。「LED」と「led」。どちらも言い得て妙だ。しかしいずれにせよ、「赤」を示す「red(レッド)」とは全く関係が無い。よってレッドキングが、「赤くない」理由が成り立つという訳だ。
また円谷プロの設定によると、「赤い血の色を好む性質から“レッドキング”と名付けられた」とある。もっともこれは、「赤くないのに何故“レッド”キングなの?」という面倒な問いに対する、円谷側が用意した体のいい方便だ。当時の現場で起こったであろう事実が、何ら反映されていない。しかし後付けながらこの「血の色」説は、作中の凶暴なイメージとも合致するので、割と多くのファンに支持されているらしい。
そして最後は、実に興味深い「発注ミス」説だ。そもそも成田亨はレッドキングを“赤い怪獣”としてデザインしたのだが、その意趣が“レッドキング”の名前共々高山良策に伝わらなかったとする説である。成田によるデザイン画には彩色が無かったので、高山が「何となく」塗ってしまったそうだ。実際に納品されたものが白色系だったので、成田はひどく驚いたという。現場ではこの行き違いに大慌てしたそうだが、結局塗り直されることなくそのまま撮影が行われ、今に知られる白色系のレッドキングの姿があるという訳だ。信憑性はどうあれ、往時の現場雰囲気が述懐されているこの説は、他のよりも面白いと思うのだがいかがだろう?
円谷による公式の英語表記が「REDKING」なのだから、別に「赤」でもいいのかも知れない。単に語呂が良いからと言えば、そうなのだろう。特に深い意味は無いと言ってしまえば、けんもほろろ、それまでである。しかしこの疑問は、「何故飛行船の“Lead Zeppelin”が、バンド名のときに“Led Zeppelin”となったか?」のような、一般の人にとってはどうでもいいような事だが、ファンには大事なことであるのと等しく、レッドキングの名付けにおける謎も、向後ファンの間では物議を醸し続けてゆくであろう。何となればそれもまた、レッドキングが広く怪獣ファンから愛されている証左である。
「レッドキング」の“レッド”に続いて、次は「王」を意味する“キング”について考察してみよう。“キング”の名を体現するものとして、レッドキングがどれだけ相応しい荘重さを備えているかはさんざん述べてきた。この項目では、怪獣の名に“キング”を付与するその意味を考えてゆきたい。と言うもの実は、レッドキングこそ“キング”の名が付けられた初のウルトラ怪獣だからである。ケタ外れな膂力を誇る象徴として、怪獣が“王”の名を冠すること自体、さしたる不自然さも無く、取り立ててあれこれ述べたりするものではないのかも知れない。「力あるもの」を“王”として崇めるのが、世の慣わしだ。ここではこの“キング”の名が、ウルトラ・シリーズの中でどのように使われていったか、その変遷を辿ってゆくことにしよう。
本邦の怪獣史において、初めて“キング”の名を冠した怪獣が登場したのは、おそらく1964年のことであろう。そう、東宝の“怪獣王”・ゴジラに敵対する、最強最悪のライバルとも言うべき三つ首の金色竜・キングギドラだ。但しそれ以前にゴジラは、キングコングと戦っている(1962年)。しかし言うまでも無くキングコングはアメリカ産なので、「本邦初」という観点からは除外するのが適当であろう。さてキングギドラだが、ゴジラが相対した初めての宇宙怪獣ということで、比類無き強さを誇った。ゴジラを窮地へ追い遣った実績は、“キング”を名乗るものとして申し分無い。また〔金色の鱗に包まれた三つ首の竜〕という堂々たる威風が、「名は体を表わす」理を体現していると言えよう。その容姿から鑑みて、キングギドラが弱い筈は無いのだ。まさに強さの象徴である。
そのキングギドラ出現から2年後。漸く“キング”の名を持つ第2号怪獣、すなわちレッドキングが産声を上げたのである。この間、本邦において“キング”を名乗る怪獣は一切登場してない。当時の「キング怪獣」が、如何に特別なものであったかが窺い知れよう。余程のことが無い限り、“キング”の名を語ることは許されなかったのだ。たとえば日本の昆虫などは、大型のものに対してはしばしば“ミカド”の名が付けられたりしている。“ミカド”とはつまり「帝」と書いて、言うまでもなくこれは天皇のことだ。キング怪獣の命名はこれと同じようなもので、そこには「力あるもの」に対しての畏れ多さを感じ取ることができよう。往時のキング怪獣の稀少さは、そのような畏敬の念から来る「勿体付け」があったことを物語っているのだ。
そしてこの畏敬は、次作『ウルトラセブン』まで保たれている。『ウルトラセブン』において“キング”の名が付けられた怪獣は、エレキング(第3話)とキングジョー(第14・15話)の僅か2体を数えるばかりだ。レッドキングの人気振りを顧みて、“キング”の名付けの旨みについて制作側が無自覚であった筈が無い。「強い怪獣」を印象付けようとしたら、“キング”の名を付けてしまえば容易い。事実初期に登場したエレキングもキングジョーも、『ウルトラセブン』を代表する人気怪獣となっているではないか。そんな短絡的思考への到達は、毎週毎週怪獣を発信しなくてはならない立場であれば、充分有り得たことであろう。ところが『ウルトラセブン』では、キングジョー以降に「キング怪獣」が登場することは結局無かった。“キング”の命名は適宜に、そして極々控え目に為されたのである。畏敬から来る「勿体付け」が、まだ健在であった証左だ。よってレッドキング・エレキング・キングジョーは、稀少さ・容姿・実績などの観点から、名実ともに昭和ウルトラ怪獣を代表する「三大キング怪獣」であると言えよう。
しかし1970年代に入って、この堰は脆くも決壊する。敬畏が払われなくなったのだ。1971年に放映が開始された『帰ってきたウルトラマン』。これに登場する「キング怪獣」の多さはどうだろう。キングザウルス三世(第4話)を皮切りに、キングストロン(第24話)、キングマイマイ(第32話)、ブラックキング(第37・38話)、キングボックル(第50話)と、実に5体も数える。これは、後の『ウルトラマンA』(4体)や『ウルトラマンタロウ』(4体)にまで見られる現象だ。(さすがにこの短絡さを危惧したのだろうか、『ウルトラマンレオ』では僅か1体だけに留めている) ウルトラに限らず、この時期の特撮物においては、「キング怪獣(或いはキング怪人)」の登場が目覚しい。兎に角キング、これもキング、あれもキング、キングキングキング...猫も杓子も、滅多矢鱈に。もはや“キング”の威も失墜し、僭称に堕したようだ。
ともあれ1970年代に入っての「キング怪獣」の頻出は、“キング”という言葉が持つ利便性に起因していると思われる。時代が移り変わり、特撮番組は“怪獣物”から“ヒーロー物”へとその性格を変えていった。それまでは、一応『ウルトラマン』などと銘打たれてはいるが、主人公は明らかに毎週毎週様々な形を見せる怪獣の方であった筈だ。だが時は経ち絶対的強さを持つスーパー・ヒーローは消え失せ、代わって「鍛える」ことによって強くなる極めて人間的な“ビルドゥング・ヒーロー”が出現したのである。つまりヒーローは、名実ともに主人公になったのだ。手強い相手に叩かれることによって強くなるヒーロー。その強敵を象徴する“しるし”として、「王」の名は便利に気安く多用されたのだ。
こういったヒーロー像は、当然70年代の社会を反映したものであり、つまり時代が求めていたものである。そのことは、『巨人の星』などのいわゆる“スポ根”物の爆発的ヒットからも窺えよう。また、70年代に入って初めてのウルトラである『帰ってきたウルトラマン』においても、それは顕著だ。放映開始早々の第4話で、何とウルトラマンはあっさりと敗れてしまうのだ。その後ウルトラマンである郷秀樹は自らを鍛え直し必殺技を習得、リターンマッチで勝利を収める。苦労の末の栄冠。もはやこれは、スポ根のドラマツルギーだ。少なくともそれまでのウルトラマンは、「鍛え直す」などという人間臭いことは決してしなかった。ウルトラマンは無敵で、それこそ「神」のような存在であったのだ。そのような意味合いにおいて『帰ってきたウルトラマン』の第4話こそが、ウルトラマンが人間になった決定的瞬間なのだと言えよう。そのきっかけとなった怪獣の名が、“キングザウルス三世”!何やら象徴的に思えてならない...。
時代が求めた新たなるヒーロー像。超越的な力に頼らない主人公。戦後25年以上が経ち、アメリカからもういい加減自立しようとした日本人の自我。人間臭いウルトラマンとは、すなわちこれの投射ではなかったか。レッドキングからキングザウルス三世へ。ウルトラマン像の変遷に伴い、“キング”の性質も対応を余儀無くされたのだ。畏怖すべき存在としての「象徴(シンボル)」から、主人公を鍛える役割としての「記号(サイン)」へと移ろっていったのである。
5体もの怪獣が登場する「怪獣無法地帯」。先にも述べたように、『ウルトラマン』の主人公はあくまでも怪獣だ。それは、怪獣の出現から最後までを主軸としたストーリー構成に顕著である。“主人公”という言葉に語弊があるのなら、“醍醐味”に置き換えてもいい。肝要なのは、「それまで映画のものであった怪獣を、お茶の間に居ながらテレビで見ることができる」ということで、だからこそ制作側はときとして複数の怪獣を登場させ、そして怪獣同士を戦わせる“サービス”を敢行するのである。
「怪獣同士が戦う」。こういったシチュエーションは、『ウルトラQ』第2クールの企画段階において既に浮上していた勘案だ。“怪獣トーナメント”なる構想。これが「怪獣無法地帯」や第19話「悪魔はふたたび」、第25話「怪彗星ツイフォン」、第37話「小さな英雄」、第38話「宇宙船救助命令」などの、“複数怪獣登場作品”に反映されたのである。またSFドラマの性格が強調された『ウルトラセブン』においてさえ、「怪獣同士が戦う」こと自体が不自然な世界観であるにも関わらず、この作劇法は支持された。そう、“カプセル怪獣”という優れた発明によって。
カプセル怪獣はさておき、『ウルトラマン』に立ち戻ろう。先に挙げた“複数怪獣登場作品”の中で注目したいのは、怪獣同士の戦いの後、その勝利者1匹だけがウルトラマンと勝負を決するという点だ。これが最も明確な形として顕われたのが、「怪獣無法地帯」におけるレッドキング、「悪魔はふたたび」のアボラス、そして「怪彗星ツイフォン」で三つ巴の戦いを征したレッドキング2代目である。(「小さな英雄」では、そもそも怪獣酋長であるジェロニモンに対して逆らう怪獣は居なかった。また「宇宙船救助命令」におけるキーラ対サイゴについては、小競り合い程度が為されるだけで、勝敗が特に明確ではない。) いずれの作品でも、複数の怪獣が共闘してウルトラマンに立ち向かうことは決して無かった。唯の1匹だけが勝ち残り、ウルトラマンへの挑戦資格者として戦うことを許されたのだ。何故か?
如何に超越的な力を持つウルトラマンでも、複数怪獣を相手にするのは無理がある。そういった配慮から来ることは、もちろん考えられよう。何しろ制限時間は、たった3分間なのだから。また、「“怪獣トーナメント”を征した勝利者だけが、超越的存在のウルトラマンと戦うことが出来る」とした、ウルトラマンの神格化とも捉えられよう。“トーナメント”とは言え、それは不平等なものであり、ウルトラマンの絶対的なシードは揺るがないのだ。ここではウルトラマンの「力の限界」よりも、「神性」の方について掘り下げてみたい。
大事のために余計な力は使わず、雑魚はより強い怪獣や科特隊に倒してもらえばいい。“特別席”に鎮座ますウルトラマンは、もはや“神”なる存在だ。人類のために費やすエネルギーも、必要最低限に抑えておく。その超力を振るうのは、いざという時だけ。暫くは人類の尽力を見守る。延いてはそれが、人類のためになるのだから。これが1960年代におけるウルトラマンのスタイルであった。
その超越的な「力」の象徴であるウルトラマンに対するものは、複数の怪獣が登場するエピソードにあっては、ほかならぬ激闘の覇者でなくてはならない。怪獣界を代表する“怪獣王”。ウルトラマンがその代表怪獣を倒すことで、もはや他の怪獣と戦う必要は無いのだ。序列としては、人類<怪獣<怪獣王<ウルトラマンである。この力関係の構図が確固たるものであったからこそ、怪獣同士の戦いを征した勝利者の強さが強調され、更にはウルトラマンの神性が保たれていたのだ。
ここで再び、1970年代のウルトラマンとの比較に焦点を当ててみよう。『帰ってきたウルトラマン』の第3話において、ウルトラマンは初めて同時に2匹の怪獣、すなわちサドラ・デットンと相対した。ウルトラ史上初のこの出来事は、先に触れた『帰ってきたウルトラマン』第4話の「労苦の果ての勝利」にも繋がろう。もはやウルトラマンが特別な存在ではなく、“人”に成り下がったことを示している。
ウルトラマンの神性の喪失、そして人間性の現出。これに伴い怪獣は、容赦なく複数でウルトラマンを攻め立てるようになった。グドン&ツインテール、シーモンス&シーゴラス、ブラックキング&ナックル星人etc...。定期的に描かれたウルトラヒーローの絶対的危機は、いわゆる“2期シリーズ”において熱狂的支持を獲得した。だが手に汗握るドラマが展開される一方で、かつて1匹だけでウルトラマンに立ち向かった“王”の威風は次第に失われていったのである。「強さ」に代わって台頭したのは、「悪さ」・「ずるさ」であった。奇しくも兄弟関係を後付けされたレッドキングとブラックキング(『帰ってきたウルトラマン』第37・38話)の比較に、それは顕著である。確かにブラックキングは比類無き強さを誇ったが、所詮はナックル星人の下僕だ。頂点に君臨するものではない。
誰に支配されるでもなく、自らの「力」一本で怪獣界のトップにのし上がったキング・オブ・怪獣。すなわちレッドキング、アボラス、レッドキング2代目、ジェロニモン...。その後激闘を征する覇者の有り様は、時代とともに変容していったのである。
“怪獣王”・レッドキングと“スーパーヒーロー”・ウルトラマンとの決戦。強敵相手に、さしものウルトラマンも苦戦か?と思いきや、実は意外にもこのカード、ウルトラマンの圧勝で終わっている。何しろカラータイマーは赤点滅に到らず青のまま、すなわち余力を残しての勝利であった。さてそれではカラータイマーが青のまま、ウルトラマンが片をつけた“余裕ファイト”を列挙してみよう。
次々と発注されるウルトラ怪獣。ここでは『ウルトラマン』第1クールにおいて、高山が造形を手がけた怪獣を着手した順番に並べ、またその製作日程を付記してみた。
※日付は全て1966年。
レッドキングの表層を覆うパール塗料。だが特殊撮影時に、塗料の粉末が剥落してしまったのだろう。『ウルトラ作戦第1号』(第1話)撮影時の“竜ヶ森セット”を使った特写会では、魚鱗由来のギラつきは失われている。5円引きブロマイドなどでお馴染みの、ウルトラマン・レッドキング・マグラーを撮影した一連の写真から、レッドキング特有のメタリック効果が一切感じられない所以だ。
第8話撮影中、実はレッドキングの尻尾は付け根から敗れてしまっている。円谷から連絡を受けた高山が補修しているが、チャンドラー戦とウルトラマン戦を較べて観察すると、その改修の痕跡が明らかだ。両戦いにおけるレッドキングの背面に着目していただきたい。チャンドラー戦では何も問題無いレッドキングの背面だが、ウルトラマン戦に到っては、尻尾の付け根あたりのブロック一枚が剥落しそうに浮いているのが判る。
※実際の血縁はもちろん、
後付けされた架空のものまで含むが、
同種としての2代目・改造・再生などは
除く。
『スペクトルマン』放映開始(1971年1月2日)から『ウルトラマンレオ』放映終了(1975年3月28日)までを“第2期怪獣ブーム”のひとつの区切りとして、その間に登場した“キング”怪獣と“キング”怪人の名前を序列してみよう。
※“バイキング”は除く。
怪獣島の怪獣王!
劇的変調を仰ぎ見よ!
爬虫類と建築様式に見るパターン組成
“成田ブロック”は躍動する
“異形”を形作るテクスチャーの剥き出し
高山工房は、怪獣たちによって活気付く
見上げる尖頭の先に、ドクロが待ち受ける
ためらうことなく殺す「無垢」
トウモロコシの結実を見よ
黄から緑へ、そして黄金色の実りへ
おどけて見せる、二大荒木怪獣
ときには異例な変幻振りを見せる
レッドキング行く所に、戦い有り
活字媒体が生み出した兄弟仁義
「赤くない」真相は、如何に?
当初はまだ、“キング”に畏敬が払われていた
“キング”は決して気安くないのだ
“キング”の量産が始まった!
ウルトラマンを「鍛える」ための“キング”
繰り広げられる“怪獣トーナメント”
“王”は、“神”に相対することを許された
唯一の存在であったが...
激闘の覇者は変容する