宇宙忍者  バルタン星人




『ウルトラマン』 第2話
「侵略者を撃て」

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コレクションフィギュアシリーズ_バルタン星人_


コレクションフィギュアシリーズ
バンプレスト


 執拗な絵の具の重畳。最早それは、甘き香り薫ずる油彩。相対すれば、まるで一絵画作品を賞翫する感覚にも似た...。

 その塗装に断然刮目だ!恰も絵画的技法によって着色されたかのような、本邦分野一有名な宇宙人の卦体、いや麗姿!それは截然とした部位毎の“塗り分け”でもなく、またスプレー塗装による“暈かし”・“紛らかし”・“誤魔化し”などではなく。

 大量生産という供給体裁を度外視、既製品であることを全く以って此れ否定した、嗟嘆すべき野心的色づけの見事。それこそひとつびとつが彩管の振るい、髻の丁寧な足運び・筆刷けを以って仕上げられたのでは?そう煥発せられし感慨は、壮語すれば、分業・流れ作業の可能性への期待にも繋がろう。

 ともあれ。宇宙忍者バルタン星人に纏わされた意趣、即ち「有機物(セミ)+無機物(ハサミ)」というハイブリッド。表皮における色彩・配色面について、これが真っ当に汲み取られた稀有な例、奇蹟の賜物であると言えるだろう。そも人智の蚊帳の外にあるその肌理模様は、無論前人未踏な訳であって、一点物の個人作品ならいざ知らず、これが量産を見越した忠実再現となってくると、マス・プロダクションには到底不向きな芸術性に、はたと行き当たるというもの。それは、バルタン星人を模った幾多の玩具や塗装済みフィギュアにおける妥協の有り様を、確と矯めつ眇めつすればお判り戴けよう。

 ブルーでもなし、グリーンでもなし、シルバーでもなし、グレーでもなし、ブラウンでもなし...。さても面妖な色合いの抽出について、メーカー側が如何に心を砕き、尚且つ難渋の割りに合点がゆくものに仕上がっていないことか。我々は既に、数多の「しっくり来ない」バルタン星人の「色」に遭遇してきた筈だ。水色の成型色が剥き出したままの投げ遣りなバルタン星人、やけに銀色が脂っこいバルタン星人、厭味な灰色と茶色が無駄に鬩ぎ合うバルタン星人...などというように。偏えに色彩の不確定。「○○色」と明言し得ない、複雑怪奇窮まる“バルタン色”が故である。

 然し乍ら成る程、「塗装済み完成品」などと謳い上げる高額商品ならば、相応のものを見い出すことが可能であろう。無論「小数ロット生産と、それに伴う可能な限りの手間隙」という、大手とは全く異なった利が有ってのこと。だが本品は、所謂“プライズ品”だ。マニファクチュアによって大量生産され、全国津々浦々の玩具店・模型店、またアミューズメント施設等に流通・プロバイドされた“オモチャ”である。一個(一回)数百円の薄利多売品。だがしかしこれが、造型・塗装ともに優れた高額商品に比して、決して引けを取るものではないことに震駭、戦慄すら覚えるのである。


 ではその塗装の妙味を、身体の部位毎に敷衍してみよう。先ずは、腕を含めたトルソーから。鈍色の鉄鏽を苗床として、金・銀・銅のギラつきが、胸部や上腕部など身体随所の表皮に点在。また腰蓑におけるメタリック感の違いにも、必定驚かされよう。そしてこれら鋼のテクスチャーより幽かに浮かび上がる、茫とした有るか無きかの蒼みは、そうまるで“甕のぞきの色”だ。だが何はともあれ「錆つき」。金属腐蝕を髣髴とさせる擦過傷の如き肌触りに、見るものはキチン質の硬き外殻に覆われた昆虫型知的生命体の不可思議さに直面させられるのである。テレビ画面の中で、初めてこの異形と出くわしたときの、あの驚嘆の再燃...。これが、シュルレアリスムの基本原理のひとつ、つまり“オートマティスム”による唐突との邂逅体験でなくて、果たして何であろうか?

 次に顔。「人型にセミの顔」などという、元来が無茶な誂え。だからこその畏怖。劇中の「昆虫人」に遜色の無い本品もまた、負けず劣らず異彩を発散して止まないのである。体躯から連続する擦過表現に加えて、頭頂部のフィルター状装飾物に向かうほど度合いを増してゆく、この“煤け”の塩梅はどうだろうか!塗装工程上、バルタン星人のフィギュア類において、省かれるか若しくは太くされがちな眼球周囲のホワイト。この繊細さも特筆すべき点だ。視覚情報獲得の為に、必要最低限具わっているだけの冷酷な目玉を、斯様に引き立てているのは、何を隠そうこの極細白線による囲繞なのである。ハート型の口吻底部における“煤け”ないし“腐蝕”の程合いも、生けるもののそれとして作用。これらを以ってして、「有り得べき」昆虫人の“かんばせ”、その現出に至らしめているのだ。

 そして下肢。強引な生体融合で主張する上半身に対して、幾何学模様という、これまた異なったアプローチで「非生物感」を体現する下半身。ここの塗りも金甌無欠だ。直線と角度が規則性を以って拮抗する、三色構成の「ギザギザ」は、さながら波斯絨毯のパターン柄。玩具やフィギュアの塗装にあって、ここも矢張り厄介な難所、テキトーに筆を走らせておいてお茶を濁すのが関の山だ。況してやそれが平面上ではなく、大腿部や膝など、あらゆる起伏によって支配された有機体の表面に施さなくてはならないのだから、余計に尚更。従来商品の大半による実践が、何よりの傍証である。そういった趨勢に抗い、決して逃げようとはしなかった本品には、唯々「シャッポを脱ぐ」のみ。スプレー塗装とマスキングの妙技、ファインプレー。エキゾチックな下肢に惚れ惚れ。飽くなき追求の執念が、ここでも息衝いているのである。

 ただ一点。塗装についての難を挙げれば、この宇宙忍者をして最も強く自己主張するハサミということになろう。それがバルタン星人の表徴であるからこそ、残念至極だ。特に何らの想到・工夫も無く、シルバーで塗り遂せたのは、それでもまあ良しとして。問題は内側。上刃と下刃の、凹状に抉れている筈の内部表現。無論これについては、平面にしてしまった造型自体に関わってくることなのだが。斯くも無残なベタ。銀一色。かと言ってここを、窪みの表現として黒く塗り潰したとしても、またそれも違うであろう。ならばシルバーのベタで正解か。しかし何せよそのような難点があっても、この芸術作品の美しき全容を破壊するものでもなく、他を出し抜く彩色の独走振りは依然孤高だ。そこがまた本品について畏敬すべき点であると再発見、改めて身も畏まるのである。恐懼して対面すべし。


 さて。段だらと彩色の素晴らしさについて綴ってきたが、いまひとつ、[フィギュア(人型)]の生命の淵源とも言うべき“造型”に触れておかねば片手落ちとなろう。

 尤もその出来映えを、ここで殊更詳述することは極力避けたい。何故か?全体的なフォルムから顔面の精緻な細工に到るまで、おおよそ欠点の見当たらない様相は御覧のとおり。だが“造型”に着眼を絞れば、これと同等かそれ以上の物が、バルタン星人の本格的フィギュアは勿論のこと、剰え子供向けの玩具類にもしばしば見受けられるのが現状だ。こういった完成度における平均値の底上げこそは、本邦一有名な宇宙人の超絶人気を達弁に物語る以外の何物でもない。それでも難しいのは、“バルタン色”の現出。何となれば本品について是非とも熱讃しておきたかったのは、「そこそこ良く出来た」造型ではなく、さんざ既述してきた彩色であったのだから。

 とは言え。及第点のこの造型について、注視すべき突出点がある。それはバルタン星人特有のシルエット、即ち立脚した際の不安定なバランス、その顕現だ。

 巨大なハサミや面長の頭部によって、どうしたって圧倒的に上半身に嵩が偏るバルタン星人の不均整。自重を支え切れない傾ぎ、下肢のよろめき。今にも前方へつんのめってしまいそうな、この“グラグラ”感覚。俯いてこそ、バルタンの本懐!造型・彩色同等にこういった臨場感も、フィギュア製作には窮めて肝要なエレメントだ。

 「玩具だから」、「模型だから」と、何もスチール写真宜しく、「デン!」と構えてれば良いというものでもない。相手は虎視眈々と地球を狙い、行動を起こそうとする“活き物”だ。なれば台座固定という狡っ辛さがあるにせよ、上記のような「倒れそうだな~、倒れるかなぁ?」といった不衡平を発露させたこのバルタンに、愛着も一入増すというものである。


 群体生物さながらの生命観で、人類とは齟齬、相容れない他天体からの来訪者。決して理解し合えない敵対者に抱く嫌悪感・無情感、または諦念...。成田亨が、または飯島敏宏が「そうあれ」と意図したように、このフィギュアでもそれは健在だ。シュルレアリスムの権化とも言うべき異形の表徴完遂は、斯様な造型・塗装を以ってして漸う全うを見るのである。

コレクションフィギュアシリーズ_バルタン星人_ウルトラマンと


『究極大怪獣 ULTIMATE MONSTERS』
シリーズ Final
バンダイ 2009年


 “究極”を謳い、「スーツのシワや空気孔など、細部にまで拘泥わり抜いた造型」を見事実践、活たる怪獣たちの英姿を陸続発信し続けて来た“アルティメット・モンスターズ”、通称“アルモン”。ウルトラヒーローだけの陣容を以って展開する“アルティメット・ソリッド”(通称“アルソリ”)シリーズ、これの対応商品として企画された当シリーズも、2007年から僅か2年で倒頭の幕引きとなった。6弾目に当該するラスト。思い返せば第1弾、2代目バルタンという意想外な抽抜に吃驚させられたりもしたが。ともあれ有終の美。大旱に雲霓を望んだ初代バルタン、満を持して漸うのラインナップと相成った。

 だが、しかし!である。矯めつ眇めつするまでもなく、一目瞭然。この“究極バルタン”を下作に貶めているのは、一も無く二も無くパステル調の水色の過度な際立ち、即ち塗装計画の明々白々たる為損じである。特にこれは、有機物(セミ+ヒト)と無機物(ハサミ)を連結させるパイプとしての要所、つまり“ハイブリッド”を顕現させるべき両腕部において致命的であると言えよう。

 シュルレアリスム絵画技法の一手段であるハイブリッド、つまり強制的一元化は、「唐突な出遇い」を目論みながらも、そこには見るものをして「あるかもしれない」と畏怖させる、自然的な“均し(ならし)”が必須だ。無理矢理に異種交配させれば、「有り得ないもの」が「有り得ない」まま終わってしまうのは必定。このデリケートな部分を巧妙に処理し遂せたからこそ、バルタン星人は前衛美術家・成田亨の“傑作”として、その雑種効果が息衝いているのである。

 然るに本品の腕部に発露する、甚だしき異質感。恰も粗製綿布のダンガリー・シャーツ、その上にジレー胴衣を着合わせたような、清水色と泥水色の相容れ無さ。この不自然窮まるライトブルーは、顔面最下部の肉タブや額部のV字フィルター状装飾、そして背面腰蓑部においても発色、見端の一具逸れに更なる拍車を掛けているのである。これが彩色計画の失策でなくて、果たして何であろうか。良く出来た、本當に良く出来た造型だけに、だからこそ乗っからない突飛な薄碧色が可惜残念でならない。

 序でに左足首に置かれたひと際濃いブラウンも、彩色の判然たる遺漏として見過ごせまい。明らかな手抜かり・ミステークであろうが、世界的原油高騰の折りも折り、幾多の人気玩具シリーズが淘汰・閉鎖に追い込まれてゆく趨勢を、物の見事に表徴したような凋落振りである。これは、三色構成でテキトーに、そう全く以って“テキトー”に「逃げ」済ませた、下肢全体の着色についても言えること。形式的に敷かれたギザギザ模様の、何と薄ら寒いことか。顔面中央を走る口吻部の、闇雲に艶やかなブラックもまた然り。(フィギュア自体についてではないが、収容箱上辺における“Fainal”の誤表記とともに)

 とは言え、だ。流石は怪獣模像の英傑・パイロットエースによる造型である。“宇宙忍者”をまさに体現する奇態の稜線、人智を遥かに超越した感情無き面差し、知的生命体に不相応なキチン表皮の堅固なる肌理など。錘脱した才覚は隠れ様も無く、驥足の現出が其処此処に見受けられよう。同等スケールのバルタン物にあっては、紛う片無き随一の造型と、そう断じても差し支えない。であるからこそ。塗装面についての不遇が、何とも悔やまれるのである。

 さて先ずは顔、セミ人間(『ウルトラQ』第16話)由来のマスクだが。眼球・口吻・V字冠・頬肉・下垂状の瘤と、面貌を構成するこれらの造作にあって、その形状と寸法、そして配置の塩梅が、実に的確であり絶妙なのである。それは本邦一有名な宇宙人の顔容、その奇相再現として、「もうこれ以上は無いくらい」と言っても決して過ぎる事はない。明眸皓歯、眉目秀麗。中窪みになった反り具合と併せて、バルタン星人の完璧なる面体容色、その妍の総てが此処に収斂されていると言えよう。

 斯様な尊容を構成する造作で特に刮目したいのは、眼球とその周囲だ。セミの眼。クリアー素材で拵えられた目玉の中には、水疱の如き幾つかの粟粒が認められ、「回転しつつ発光する」あの不気味さを、劇中さながら其処に顕現させている。地球人の生命観を全く理解しない非情動者の、それでも確かに「活きている」眼。冷徹に、唯ひたすら冷徹に、視覚情報を確保せんが為の器官は、意外にも太い「枠」によって強固に囲繞され、牢乎たる昆虫眼を完遂させるのである。「事務的且つ機能的」を体現する、目ン玉のこの嵌まり具合!これこそが、情感を持たないバルタン星人の、されど唯一の「表情」なのである。

 次に陳じておきたいのは、独特な身構えによって描き出される印象深きシルエット、そのリッジ・ラインの活写だ。面長な頭部と巨大なハサミで、バルタン星人の嵩偏重は圧倒的に上半身に置かれる。両腕を水平に保持しようとすれば、ハサミの自重によって否応無しに俯き加減となり、またハサミを上方へ掲揚すれば、腕先の安定の為に、どうしたって本フィギュアのような均整保持体位、つまり腰を前方へ突き出したポーズを採らざるを得ない。その為に頤は頚元へグッと引かれ、背筋は腰へ向かって緩やかなカーヴを描くのである。二足立脚にあっての斯様な困難、何たる卦体であることか。側面に発露する、はんなりとした湾曲・弧線。何となればこの稜線こそが、“バルタン・シルエット”の正体であり、「未知の異者がそこに佇んでいる」ことを匂わせる“らしさ”なのだ。

 こういった臨場感までをも演出させ得るオブスキュア性は、“曖昧模糊”なればこそ、実は模像製作にあっては、造型者ひとりびとりのセンスが試される局面なのである。いま一度、アルモン版の本バルタン星人像を御覧戴きたい。フィルム作品で目撃したあの怪人が、其処に佇立してはいまいか?アラシがイデがハヤタが、そして我々人類が直面したあの邂逅、総毛立ちの再喚起。顔の造作が逐一正確であるとか、細かいディテール云々とか、無論それも肝要なのだが、何はともあれ「そこに居る!」というオートモスフィアー。実在感有りきの模りである。なればこの、それこそ拍動や息遣いまで伝播するようなバルタン星人の如きは、“アルティメット(究極)”を掲げるのに相応しいのではなかろうか!(尤も本品の場合、塗装・彩色について除外して賞翫せねばならぬと、重ね重ね釘をさすものであるのだが)


『究極大怪獣 ULTIMATE MONSTERS』
シリーズ Final
バンダイ 2009年


 上記“アルモン”版バルタンの、これはそのブルークリアー成型で、眼球以外は全て無彩色といった仕様だ。造型面での変更点はと言えば、ハサミを掲揚した有彩色版に対して、こちらは両腕を下垂させた平静ポージングであるという事。遵って弛緩させた腕部を除けば、頭の天辺から爪先まで、ハサミを含めて押し並べてフルカラー版の物を流用している。色の着いていない、クリアー成型のバルタン星人...1997年のバンダイ製ソフトビニール人形・“ブラッククリアー版バルタン星人”の発売爾来、バルタン星人物の別種アレンジと言えば短絡的にクリアー成型...果たしてこれを「有り難い」ものとして享受出来得るか否か?

 御殿山は科学センターを占拠した宇宙忍者。施設内の職員や科学特捜隊隊員らを、尽く翻弄した「分身の方術」。本商品・ブルークリアー版バルタンの名目、即ち「分身体」なる謳い方便は、斯様なシーンが有ればこそ、一応の成立が認許されるというものだ。需要側はこれを、バルタン星人がドラマの中で実際に見せた一側面、それを汲み取った意味あるバリエーションだと、そう受容し得るのだから。

 然し乍らいま一度、本編を篤とご覧戴きたい。劇中の分身バルタンをイメージしたブルークリアー素材、その活用。それが必ずしも的を射ている訳ではないと、目に映じるであろうから。そも“青み掛かり”の先入観定着は、飽くまでもストロボ像合成時に派生した色味劣化に因由するものだ。写真で言えば陰画、つまりフィルム・ネガにも酷似した像結び。だがその“虚像”を形作っているのは、紛れも無い実像由来の陰影と色彩の濃淡だ。黒豹が黒一色ではなく、よく見れば黄豹同様の斑模様が薄っすらと点在するという「実は...」。此れと同じ。ストロボ像によって切り取られた分身バルタンにだって、総天然色のニュアンスが茫と、しかし確然と存在するのである。向こう側が透けただけの、単なる“透き通り”では決してない筈。

 よってクリアー素材の登用を以って、「分身体」とするのは些か「ムシが良過ぎ」というもの。「省力」や「手抜き」に類した誹りは、これはもう不可避だ。このことは透明時のネロンガ(『ウルトラマン』第3話)についても、全く同じ事が言える。“分身バルタン”や“透明ネロンガ”の看板をこれ見よがしに冠した玩具・フィギュアについて、合点がゆく成功例は極めて稀だ。ただ「今まで無かった切り口」、その発見・発意こそは賞讃されるべきであって、この「発明」による新奇な価値付けの上に胡坐をかいた後進の懈怠・体たらくこそが、痛罵されて然るべきなのである。だらしの無い。

 数ある“クリアー・バルタン”物の中にあって、それでもこの“究極版”に附された目新しい趣向・工夫を挙げるならば。ひとつには、眼球までをもブルーで塗装したこと。そして後は矢張り、腕の「揚げ・降ろし」の差異だけとは言え、彩色版バルタンとは一応違えてみたポージングであろう。目と腕。僅かにそれだけ。このように「せめてのもの救い」を見い出す事さえ、難渋してしまうのだが...。

 尚、腕や下肢におけるジョイント部の凹凸は、実体版と分体版とも汎用仕様となっているので、これらを入り混ぜて連接・換装させる事が可能だ。「分身途中」或いは「消失途中」などと、想像を逞しゅうするも良し。だがこの“挿げ替え遊び”が、フルカラー彩色版と同額という理不尽さを払拭するものでは決してない。800円プラス消費税の代価を支払ってまでして、この無彩色バルタンが出てしまったときの憤怒・業腹・切歯扼腕!プロバイド・サイドに対する呪詛呪詛呪詛!そのマグマの滾りが収まることは、先ず有り得ないだろう。


『SUPER ACTION ULTRAMAN』シリーズ
SWENSEN’S


重ねて同じ色を塗り続け幾たびになろう
しかして立体化した型状の絵すなわち成就

ヤプーズ 『ダイヤルyを廻せ!』より
 「赤い戦車」抜粋

 (作詞:戸川純 1991年)

 蒹葭は蒼蒼として、白露は霜と為る...。この「青」の幾重!沈降した藍靛より滲出する蒼空と、浮遊する綿雲の如き白のハイライト。海、空、そして大気と。まるで「地球色」を上体に纏ったような、地球強奪者のこの彩り!塗装に見られる真摯と律儀。

 インディゴ・スカイプルー・ホワイトの三色構成は、ともすれば形式的でイージー・ゴーイングな彩色手法として目にも映じよう。だが、鋸刃の刻み目の如く藍と青が鬩ぎ合い、そして白が光輝部各所に置かれるなど、こういった丁寧な仕事振りに見受けられる「逐一」は、作り手の愛情発露を示す痕跡以外の何物でもない。

 またハサミの開閉ギミックや、俗受けを狙った柑橘類を髣髴とさせる眼球など。これら、手にした者が愛着して止まぬよう仕向けられた仕掛けのあれやこれやは、これが「心有るオモチャ」であるということを端無くも語っているのである。心!そう、海の向こうのその国では、まだそれが...。

 海外放映権を巡って本家・円谷と擦っただの揉んだだの、骨肉相食んだたタイのチャイヨー・ツブラヤ。この「蒼き」バルタン星人はそのタイで発売されたもので、本邦の製品に当て嵌めるならば、現・『HDM創絶』シリーズのルーツとなる『ハイパーウルトラマン』系列に相当しよう。よって斯様なスタイリングの良さは、『ハイパー~』からの原型流用と推察出来るのだが、さてどうだろうか?仮令そうであったとしてもこのタイ製バルタンは、「彩色」と「可動」を以って日本製のそれを凌駕するのである。(※1999年発売の『ハイパーウルトラマン』版バルタンは無彩色・無可動であった)

 さてその造型だが。三日月状に内へ向かって湾曲した顔面に、V字冠・眼球・口吻・肉瘤と、人智及ばぬ知的生物の面容を形作るこれら各造作。その相対的度量と配置、即ちバランスの妙は、上記アルモン版バルタンの洗練された造型に比肩、決して後れを取るものではない。また側面に現出する緩やかなS字は、“バルタン・リッジライン”として完璧だ。言祝ぐべきこの異彩!

 ただ惜しいかな。額部フィルター構造の溝々、頭部と躯体との接合部位、そして腰蓑と囲繞部との接地面、これらにおける“目詰まり”が、折角の拵えを損ねる結果となっている。そして明らかなエラーとしては、上ハサミの側面に刻印された方形の整列。本来ならば内側に有るべきそれが、外側に居並んでいるという逆転だ。が、これは昭和往時よりバルタン物に付いて回る誤謬である。愛嬌愛嬌。

 たかだか小児に向けて作られた安価な代物。「お国柄故の成型事情」と断じてしまえばそれまで。しかし本商品が、バーツ経済圏の中で果たして如何程であったのかは与り知らぬが。日本の『ハイパーウルトラマン』に当該するキャンディ・トイ、その“オマケ”としての人形。これが本家・『ハイパー~』に比して、遥かに低廉であったことは言を俟たない。こういった価格面を顧慮の外に置いたとしても、上述のような瑕瑾は、言ってもまあ「玉に瑕」止まり。この青バルタンの愛玩すべきチャームを、少しも殺ぐものではない。

 このような「心奪われる」バルタン・フィギュアの異邦における存在こそは、ウルトラマンが其処にも居るという、何よりもの傍証である。ウルトラマンは我が国の物。いやいや、こっちのだ。なんて、蝸牛角上の争い。金城哲夫が掲げたコスモポリタニズムの体現者、皆のウルトラマンである。どこの国でも、そして誰にでも愛されてほしい。


ポリストーン製スタチュー
塗装済み完成品
浪漫堂 1997年


 凛然と佇立する“宇宙忍者”の奇態・異形。ハサミを擡挙させた身構えは真正直、概ねシンメトリーを成すものであり、その愚直なポージングに、「矩形に区劃された台座上の立像」という、制約的な誂えの呪縛を見るようである。

 巨大なハサミと面長な頭部で、上体に圧倒的な度量衡偏重を呈する筈のバルタン。立脚の為に均衡を保持しようとすれば、或いは項垂れてみたり、若しくは膝を屈曲させたり。而してこういった不安定さが、バルタン星人“らしさ”なのだが。本スタチューのように、両膝を殆んど曲折させずに佇ませれば、幾ら優れた拵えであっても、稜線が鋳造する本質性を殺ぐことにもなろう。

 “ポリストーン”...。当時まだ目新しかったこの素材を以って塑像されたバルタン星人像である。上述したように、ほぼ直立姿勢が“バルタン・シルエット”を減殺するものの、全体的なディテールの完成度をそれ程阻害するものでもない。多くのバルタン・フィギュア群にあって、本製品の注視すべき点は、ハサミの尖端や後部腰蓑のシャープさなど、兎も角も「鋭利」な造作である。新素材・“ポリストーン”の起用、その面目躍如と言えるだろう。

 然し乍らここでも“バルタン色”の難しさが現出、造型の見栄えとは裏腹に、彩色面においては馬脚が発露していると断ぜねばなるまい。「手作業によるひとつひとつの丁寧な塗装仕上げ」を謳っていた本シリーズ。しかしてこの塗りの不巧さ。斯様な不首尾が文句通りの労苦、その結果ならばまだ許容されよう。何となればバルタン色は、文字通り“難色”なのだから。だが御覧のような塗装の粗雑さからは、艱難辛苦の痕跡などは合切見受けられず、遵って色彩設計の失策が抗弁として成り立つべくもない。明らかな端折り、または単に抜かっているのである。

 何は置いても取り敢えず目に止まるのは、顔の肉瘤や胸の光輝部、そして大腿部に棚引かれたパステル色調の水色であろう。何たる迂愚、厭味、ミミズのぬたくり...。先ずは、上半身における蛮行。鋼のテクスチャーとして発色する「白銀」に、“錆び”ないし“煤け”を髣髴とさせる「黒」が侵蝕、まさに“ハイブリッド”を体現する折角の彩色仕上げを、この稚拙極まりない蠕動の軌跡が容赦なく貶める。これが第一の致命傷。

 次に下肢。そもそもが髻の足運びを遺すカーキの塗りムラ、筆刷けの痕跡も露わな粗笨・無調法・徒や疎か・ズサン・いけぞんざい。このようにスースーした伽藍な下半身に、燐光の如きブルーがくねくねと蛇行、上体の深手に継いでこれがトドメの一撃となる。剰えその水色の波浪模様でさえも、膝下は不侵犯という不徹底振り、曰く「中途で止しました」。このいい加減さ、テキトーさ。抜きん出た造型に、全くそぐわない塗装。寂莫たる荒れ地にポツネンと置かれた釣鐘は、寒風に吹き晒された堤燈と成り果つるのである。何という薄ら寒さ...。

 このほか塗装の失態を挙げるとすれば、眼球を囲繞して両眼を連結する黒の縁取りであろう。最早それは、そう眼鏡のフレーム...。余りにも安易で無粋な“墨入れ”は、更に後頭部へと走り、宇宙忍者の顔貌を酷く汚濁・破壊するのである。逆に彩色が長じている点は、ハサミにおける金属的擦過表現以外に、とんと見当たらないのが実情だ。全高13cm。4500円。代価に見合った仕事とは、到底思えないのである。


『DGウルトラマン』 シリーズ 1
〔本編ver.〕
バンダイ 2009年


 1994年のシリーズ創成以来、15年にも及ぶ歴史に幕を下ろした“HG”。原油価格高騰や中国工場における人件費の底上げなど、趨勢の諸事情が折り悪く搗ち合ってしまった、何となれば不遇・逆運・憂き目であろう。現行の小売値では、どうにもこうにも謳い文句の“ハイ・レヴェルなグレード”が保てず、殊に塗装の端折りに到っては酸鼻窮まる為体だったその末期。固持して来た200円の無理。値上げは不可避、已むを得ず。とは言え、折角上げるんなら上げるで、+100円分に見合う技術と品質の更なる向上、いや革新を!なればいっそここはひとつ旧態との訣別、つまり“HG”の冠外しを潔しとして。という訳で、さて。由緒ある在来シリーズを単に葬るだけの、無益な蛮行と成り果つるか、将又画期的英断となろうか?伸るか反るかの大死一番。兎も角も而して旗揚げされた新機軸が“DG”、即ち「DIGITAL GRADE(デジタルグレード)」であった。

 従来品のHGを遥かに凌駕する精緻な造型と、特に“デジタル新技術”が実現し得た「ミリ以下のピッチ」による彩色が目玉、はい注目、ベンダー事業部が自信を以って送る“DG”をご覧あれー!なんて、専門誌面上や他諸々にて喧伝大上段。ディージーィィ?何だそりゃぁ?名前を変えりゃぁ良いと思ってけつかる、くっだらねぇ、どうせまた...。HG凋落の経緯を知り、苦汁を嘗めさせられた舌の記憶もまだ新しければ、蟠る疑団ご尤もだ。耳目半開きでテキトーに提灯記事を受け流し、期待・2諦念・8の心持ちのまま、ひと月ふた月と時は流れて...。それでも俟たれた2009年は雷乃収声の候、9月の終わり。その日。ケレンでもイカサマでもない、我々はカプセルトイ・フィギュアの極限・骨張に遭遇する。

 ああ、バルタン星人!おおDGよ!何してこましやがる...。余りにも有名なるが故、高々がガシャトイにあって、然程食指が動かなかった此奴に、斯かる琴線のヴァイブを覚えた事が曾てあっただろうか?即答、否!ウルトラマン・ベムラーレッドキング・ゾフィーと、草創には穏当至極な陣容の中で、何は扨措きバルタン星人こそがハイライト、売り、さんざ得意気に囀っていた“デジタル着彩”の揮い処だ。「本編ver.」・「撮影会ver.」・「分身ver.」と、不況の折りも折り、愛顧者の台所を直撃する財布に厳しい1/3アソートなれど、手にすれば得心の出来映えに欣喜雀躍、「遂にガシャポンもここまで来たか」と感慨も一入であった。肥大して已まない涯無き希求に、意地でも応じようとする研鑽の土性骨。この鬩ぎ合いの連鎖地獄について、自身も狂騒に加担した一消費者なんだなぁと、多少の罪に慄きつつも...。

 では。「凄げぇ凄げぇ」宣ふ中身を、本項目では「本編ver.」、つまり実際にフィルム作品に登場した謂わば“TV仕様版”を採り上げて、具に賞翫してみよう。

 HG第1弾のver.1、そして造型・彩色共に刷新されたHG第40弾のver.2。(共に当頁下段参照) 既往2体のバルタンに較べれば、痩身の度合いが窮まった印象のDG版である。余剰な肉を削ぎ落とし、まさに“スーツ感”に肉迫しようとした拵え、それこそはイノベーションならではの目論見ではなかったか。どれだけリアルに模った心算であっても、8cmが精々の寸丈、畢竟無理が生じよう。早い話し、「モタッ」となるのが関の山だ。これを克服ならしめ、所謂「エッジの利いた」シルエットを顕現させたのが、或いは吹聴喧しかった“デジタル新技術”なのだろうか?

 とまれ斯くまれ、不均衡なプロポーションの再現、活写の見事なるかな!面長な頭部と両腕の巨大なハサミで、上半身にウエイトが置かれる結構。偏重した嵩によって顔は俯き背は丸み、前方へ突き出した腰と、頼り無さげな下肢の支え。こういった複合的なイングリーデンツで描出される、“バルタン・ライン”とも称すべき稜線。そのオブスキュア性に則り、擦れ擦れに絞りに絞った形作りは、中に入った人間の躯体を聢と息衝かせる。掌にちょこなんとする小粒なコイツに、スーツ演者の身体髪膚を感じ入る者は、恐らく少数ではないだろう。

 “無駄な贅肉”の削剥は、塗料に厚みを持たせない新着彩技術だからこそ為し得る拘泥りだ。そも初めに“デジタル塗装”が有りきで、どんな複雑な形状にも乗っかるカラーリングが故に、幾らでも造型の緻密さを窮める事が可能となった。立体印刷を駆使したデジタル・ペインティングに対し、いま一つ正体が判然としないデジタル・モデリングの方にあっては、そう解釈するのが妥当なようだ。「デジタルによる成型」ではなく、「デジタル着色を見越した原型作り」。詰まる処アナログな手作業は依然変わらず、模像に魂を込めているのはやっぱり人間なのである。

 斯かる次第でDGの象形については、ディテール追窮の手を決して緩めない。緩める訳にはゆかぬ。頭部と肩の分界線に向かって鈍角に刳れる面体には、眼球・口吻・肉瘤が絶妙な位置に配らわれ、それら造作が織り成す凹凸の確かさが、本邦分野随一を誇る名士の面構えを完遂。剰え空気孔も穿った心憎さ。肢体各所のモールドは勿論、腕とハサミのジョイント部位における微妙なニュアンスまで、隅々緊張感の漲った模刻である。身仕舞い正して危坐、畏まった姿勢で拝謁されたし...。

 例えば上掲HG第40弾のver.2が発売された2004年往時、「カプセルトイ・サイズでは、バルタンはもう望むべくも無し」などと、暢気にも飽満したものだがしかし。此度2009年のDG版と秤に掛けてみれば、最早過去の遺物は歴然。見端共にソフィスティケイトされた筈のフォルムも何処か鈍ら刀で、新参者の前では色褪せてしまう理法の正則か。極上だと油断していたら、然に非ず。更に上をゆく“至高”との対面にあって、暫し充足していた欲求の胃腑が、又候拡張している己にはたと気付き、「フィギュア畏るべし」と手に汗握るのである。

 さて、とここで愈々。鳴り物入りの虚仮威しに堕す事がなかった、DGの本領、即ち“デジタル着彩”の赫々たる光彩に触れてみよう。尤もそのような曠古的技術が、思いの丈存分十全に遺憾無く発揮されているのは、色彩の重畳がより複雑さを窮めた「撮影会ver.」の方であろうが。しかしそれは後段で詳述するとして、当項目では飽くまでも「本編ver.」に焦点を絞りたい。昭和41年。ブラウン管の中から、我々人類の眼前に初めて姿を見せた“あいつの色”に、ぐぐっと。

 究竟「塗装」とは言うものの、立体印刷技術を応用したエポックメーキングな着色法は、“paint”ならぬ最早“print”だ。つまり「塗り」ではなく「刷り」である。注目は下肢。並びに臀部を被嚢する腰蓑。はんなりと仄かに茫々と。淡く浮き出た縞模様の朧げ。この機微!この妙味!成る程斯様なデリケートさは、従前の「手塗り」では必定敵わぬ発色であっただろう。心做しか仄んのりと石竹の淡紅色、滲み出たピンクの、扨も面妖な。恰もそれは石灰質を含んだ外殻を纏いし生物、即ちエビに代表される十脚目長尾類、水底に蹲う彼らの甲殻にも似たり。惹き付けられた視軸は遷す事能わず、網膜は色収差さながらの不思議な透明感に眩惑玩弄され、そしてキチンが如き光沢に為て遣られるのである。

 ところで上述“エビの甲殻”以外に、全体どの箇所にデジタル・プリントが揮われたのか、また効果が発露しているのかだが、...「よく判らない」のが正直な処だ。凹凸が入り組んで激しく頡頏し合う顔面及び胸腹部に、或いは陰影としての濃淡が「ミリ以下のピッチ」でドット打ちされているのかも知れない。若しくは腕先とハサミの接合部、この異種交配の場に置かれた錆び色のグラデーションが、「ひょっとしたらなのかなぁ」とも思う。実際、その鉄鏽の侵襲が織り成す色調の漸時的変移は、程合いがやけに美麗であり、筆が奔った痕跡は全く見留められない。有機体と無機物が強引に一元化される、まさにハイブリッドの要所をして首肯せしむる、誂え向きの色彩的階調と言えるだろう。マス・プロの体制下で管理された職工のハンドワークでは、到底届かぬ至芸だ。

 何処迄がデジタルで、何処ら辺がアナログなのか。詳しくは一向与り知らぬが。下肢と後ろっぺたの腰蓑。それとハサミの付け根。此処に「エビ」と「錆び」を見るだけでもうザァッツ・イナァフ、人智を超越した奇態への合点に拍車が掛かるのである。“デジタル新着彩法”の、なれば有意義。先人・HGに引導を渡した矜恃は伊達じゃない。尚これは、DG第2弾目として2009年10月に発売された『DG仮面ライダー1』の、尋常ならざる彩色(特に仮面ライダーディケイド・コンプリートフォームの塗り!いや刷り!)が雄弁な証左、謦咳に接すれば駄目を押すであろう。

 如何様にも色を置ける!測り知れない可能性を秘めた、ある意味万能のテクノロジー。準拠追随して造型も洗練の度合いを深め、余剰な肉を刮ぎ落としてこます...。口火を切る我らが宇宙忍者。幼少の砌にテレビで目撃したあのグロテスクな、しかしそれでいてラヴリィな彼奴が、机上に、そして掌上に、ちょこなんと佇立する僥倖。更なる欲求の胃腑拡張を担う新シリーズ、此処に降誕!“HG”の銘を潔く葬り、新機軸“DG”を発企させた採択が、画期的英断でなくて果たして何であろうか!斯くてHGは臨終の時を迎え、好事家たちの胸底に良き想い出として沈澱するのである。拝礼。


『DGウルトラマン』 シリーズ 1
〔撮影会ver.〕
バンダイ 2009年


 上掲「本編ver.」と造型は同じゅうし、しかし彩色を違えてアソートされた3種の一、此方は「撮影会ver.」である。“撮影会”とは、フィルム作品である本編の撮影終了後、プレス向けに催された謂わば「お披露目の場」。その際バルタン星人のスーツは若干のお色直しが施行され、総体的に青み走った新装での咫尺と相成った。全編を通じて夜間のビル街ないし薄暗い施設内と、照明乏しきシーンで終始する第2話「侵略者を撃て」。そんな次第で昭和往時における児童書などの紙媒体では、放映フィルムからのスチル抜粋は稀で、掲載使用されたのは専らこの“青き宇宙忍者”だ。遵って「バルタン星人と言えば断然こっち」と、腑に落つる諸兄も多かろう。

 さて、デジタル印刷技術による新着彩法だが。「本編ver.」の項でも触れた通り、「遺憾無く発揮された」という意味合いにあっては、俄然当方「撮影会ver.」に軍配が揚がる。尤もそれで、「本編ver.」の方を悪し様に評するものではない。春秋の筆法。茫と光輝したような塩梅の目玉や、随所の造作を易々とは鮮明にさせない、仄んのりとした色遣いの匙加減など。こういった「玄人好みの渋さ」で支配される色彩設計は、飽くまでも劇中のイメージに重きを置いたが故の帰結なのだから。これに対し、各所のディテールを截然と浮き彫りにし、宇宙忍者の稀代な奇態を陽光の下に晒した体裁なのが、即ち「撮影会ver.」の仕様である。

 では、「本編ver.」との大まかな相違点を挙例してみたい。先にも述べたが、躯体を纏繞するブルーが、「撮影会ver.」最大の変更点であり表徴だ。この「青」の表層仕上げによって、手の込んだカラーリング、特に下肢を彩る紋様は完遂するのである。他、熟視を俟たず、例えば眼球が橙黄色であるとか、口吻部がより金属的な鋼色だとか、またハサミ付け根が血流を煥発させるカーマインであるとか、簡単な間違い探しクイズの解答宜しく、これらの差異はいとも容易く見い出せるだろう。所謂“怪獣図鑑”で膾炙された、我らがバルタン星人の到ってポピュラーな相貌である。その尤なる再現っぷりを、篤と拝観されたし。

 取り分け刮目すべき箇所は、「本編ver.」同様、矢張り下肢と臀部側の腰蓑という事になる。畢竟ここいらがデジタル着彩法の揮い場。殊に当ヴァージョンについては後者、つまり“尻あて”に注視したい。このヒップフラップをして、螺鈿のように眩惑させる、色彩の揺らめきと光沢はどうだろうか!また扇型のフォルムと、放射状に幾条の筋を波打たせたフレアー構造。これらの要素と相俟れば、最早それは帆立貝の麗しき殻に匹敵しよう。恰も水面に拡散した油が虹色を打ちまけるみたいに映え、賞翫に与る者は陶酔・惑溺・沈湎し、大袈裟に言うなら「人生を駄目にしても構わない」と憂き身を窶すのである。「塗り」ではなく「刷り」の驚異、嗚呼畏ろし哉DG!

 以上、尻に金襴錦を捉えればそれで十全、他に頌辞を俟たず、語る勿れ。辛子色の眼球やら、クリムゾンなハサミの根方なんぞしゃらくさい、どうだっていい。「本編ver.」の下肢にエビを、そして「撮影会ver.」の腰蓑に帆立貝を見留めるだけで、新機軸・DGに賭けた情熱は充分伝わるというもの。だが危惧すべきは所謂“一発目の気負い”、此処に落し穴が...。

 ‘80年代初頭。客席に向かって獣蓄の臓物を投擲するなど、スキャンダラスなステージで女性誌をさんざ賑わした、本邦分野におけるパンク音楽の草分け的存在、“ザ・スターリン”。ムーヴメントを仕掛けた中心人物でヴォーカリストの遠藤ミチロウは、ライヴ開演の1曲目に、可也の頻度で「虫」(1983年 徳間音工 THE STALIN 3rd.アルバム『虫』収録)なる楽曲を登用し歌唱していた。「オマエなんて知らなぁ~い」と繰り返される、氏自身の内懐・本意を反映したフレーズには、精と根の殆んどが費やされ、そんな訳で2曲目以降は疲弊し切った労役馬の如く、惨憺たる有り様を晒した事も屡だ。“一発目の気負い”。DG第1弾の、別けてもバルタン星人が、遠藤ミチロウにとっての「虫」にならなきゃいいけど。斯かる危懼を誘発せし全力疾走。何か丁度、誂え向きに“虫”だし。


『DGウルトラマン』 シリーズ 1
〔分身ver.〕
バンダイ 2009年


おまえは透明 無理矢理消された沈黙
おまえは蒸発 正体不明をさらに隠す
手あたり次第に捜してみても
存在理由がどこにもないんだ
見えない 何も見えない

THE STALIN 『Fish Inn』より
  「T-Legs」抜粋

  (作詞:遠藤ミチロウ 1984年)

 間歇的観察、即ち“ストロボ・スコープ”による残像効果で、個体数増殖の錯視を誘引する、宇宙忍者の分身術。この際虚像の一つびとつは、光学合成の影響で青く褪色し、我々の目に茫とした幻影を映じさせる。第2話「侵略者を撃て」を或いは象徴する、有名なあのシーン、蒼きバルタン星人の来迎...。

 斯かる“ブルーでクリアーなバルタン”を好い口実に、原型は着色版と同じ物を流用し、青系の半透明素材、若しくはブロンズ風な不透明素材を以って、然も“らしく”仕立て上げ、「分身ver.」などとしゃあしゃあ吐かしてこます商魂、厚かましさ。オマケに「“分身”体だから幾らでも所有を許容」なんて、為足り顔で戯言、誰がそれを是しとしたか?要らぬ趣向変え・ヴァリエーションは、何処まで行ったって無用の云々。余りにも沙門しき詐術には殆々辟易、一寸遣る瀬無いなぁ。

 だいいち。劇中に見るストロボ像は、色味の劣化で“青っぽく”はあるものの、しかし平板単調な“青一色”という訳ではない。またクリアー素材で成形すれば、組み立てた時に内部の具合が透けるのは必定。つまり胴体と四肢などの接合部、所謂“嵌着”のザマが、外観からでも偸閑に露呈してしまうのである。まあ何て大層なお粗末、安っぽさ。難癖だらけで、一向有り難味を感じないのが、正直なところ。巧い発意の割りに。

 然りとても。「本編ver.」・「撮影会ver.」に続く、この第三のアレンジメント。従来品とは一線を劃そうとする、流石はDGだ。一発目に奮い立つ鼻息が違う。先ずはクリアー成型を見限り、通常素材の表層をシルバーとブルーでメタリカリィに着彩。その青光りの風合いは、成る程ストロボ像を模したものとして得心ゆこう。更にここからが“デジタル”の発揮処か。随所にしれっと濃淡の機微を、はんなりと然有らぬトーンで持たておいて、同系色による陰影表現を試行。茫としながらもしかし「確実に現在する」なんていう自家撞着、かの不思議な玄妙さに肉迫する趣向である。そして矢張りハイライトは、下肢。のギザ紋様!朧げに浮かび上がるジオメトリックなパターン。青は藍より出でて藍よりも青し...。其処に僅かでも色調の変化を見留めるのならば、この蒼き虚像は、聢と「二本脚で直立する幽霊」足り得るのである。

 取り分けカプセルトイの中では、分身体としての骨頂、いみじくも成功と言えよう。尚ハサミの上刃がシルバー、下刃がブルーと、些か頓狂なニュアンスもあったりするが。並べて先達無き瀬踏み故、向後の改善・研鑽を期して寛恕したい。ともあれ。イノベーションの幕開けに傾けた情熱、第1弾の気負い。それは汲める。汲めるがしかし、300円を投じた筐体から、コロッとこの青いバルタンが転げ落ちて来たら可惜痛恨、やっぱり詮無いなぁ。狡いよ、1/3アソートは。

『HGウルトラマン』 シリーズ PART 40
復活のバルタン星人編
LOT : 凹 4
バンダイ 2004年


 記念すべきHGシリーズ第1弾で最初のバルタン星人が出て以来ちょうど10年目、造型・彩色ともに刷新、完全リニューアルでバルタン星人が登場。10年もの長きの歳月は、そのまま技術革新を物語る。ふんぞり返ったポーズでカッコイイのは確かなのだが、10年前のあの「俯き加減」のシルエットに重きを置いたバルタン星人の方に、愛着があるのも確かだ。

『HGウルトラマン』シリーズ
ウルトラ大怪獣バトルスペシャル
LOT:凹 3
バンダイ 2007年


 2004年に発売されたもののリペイント版。普通は前作よりグレードアップするのが、リペイントの本懐だ。しかし2004年のものに比して、下半身のこの際立つ水色はどうにも戴けない。センスの悪いパジャマのようだ。

『HGウルトラマン』シリーズ
ベストセレクション
LOT:凸 1
バンダイ 1996年


 1994年の第1弾がブルー系のイメージだったのに対し、こちらはグレイがかったライトブルーの彩色だ。思い切った黒の彩色によって黄色い目が際立ち、思案気に俯くシルエットともに、バルタン星人らしさが素直に伝わってくる。まさに「作り手の思い入れ」の具現化だ。

『HGウルトラマン』シリーズ
ベストセレクション(再販)
LOT:凸 2
バンダイ 1997年


 1996年のベストセレクション版の再発物。目立った変更点は、かなり雑になった黒の塗装部である。

『HGウルトラマン ガシャポンEX』シリーズ
PART 1
LOT:凸 3
バンダイ 1998年


 カプセル自販機の置いてないコンビニで販売された袋入り体裁のガシャポンで、これは1994年に発売された第1弾のリペイント再発物である。このバルタン星人は、その第1弾の彩色に極めて近いブルー系のイメージだ。ハサミの付け根や胸部の、ボカシ塗装に特徴が見られる。

『HGウルトラマン』シリーズ
PART 1
「バンダイガシャポンEXPO2000」版
LOT:凸 5
バンダイ 2000年
(2000年8月開催 11月一般発売)


 『バンダイガシャポンEX2000』で発売された、1994年第1弾の再発物。同型で幾度となくリペイントを重ねてきたバルタン星人も、ここに極まった感だ。上半身のウェザリング塗装や、腰蓑の墨入れなどに意匠が見られる。

『HGウルトラマン』シリーズ
怪獣ベストセレクション
LOT:凸 1
バンダイ 2002年


 1994年発売の第1弾の型を、しぶとく再利用。苦肉の策は、遂に「分身イメージ」のブルークリアーに。黄色い目のほかに、実は極々うっすらと全身に白っぽい塗装が施されている。しかし塗料が無い分の痩せ細りは、継ぎ目の凸と凹の噛み合わせの緩さを招き、“ぐらぐらバルタン”を飾るのもひと苦労だ。

『ウルトラ怪獣名鑑』
シリーズ 1
バンダイ 2002年


 御殿山は科学センター。分身してイデ隊員を目くらました、あの内の名シーンを再現した傑作である。一体がフル塗装で、分身二体がブルークリアー。飽食気味のバルタン星人・フィギュアの中にあって、このシーンをひとつの台座上で再現した、名鑑シリーズにかけるこの意気込みには敬意さえ払う。

『ウルトラ怪獣戯画』シリーズ
ウルトラ兄弟激闘史Ⅱ
バンダイ 2006年

 劇中どおりの夜のイメージ塗装である。対峙するウルトラマンとバルタン星人、両者の間にバルタン星人の抜け殻、囲うビル街。と、いささか詰め込み過ぎの感で、全体的にせせこましいまとまり方だ。しかし注目はこの塗装だ。こういった夜間光や夕焼け光のイメージ彩色は、フィギュア創世記の頃よりあった、「巨大感・存在感を表現するために明度を落とした部分陰塗装」とでも言うべき、三次元物に二次元的効果を施すような言わば「思い入れ」の延長上にある気がする。「思い入れ」だけに果たせるかな、その効果を十分に発揮できているものは少なく、この手のイメージ塗装は俄然鬼門だ。しかし本商品は一応の成功を見ている。劇中のイメージに何とか近づけようとした執念の集積、アプローチの開花だ。


600円ソフビ『ウルトラ怪獣』シリーズ
バンダイ


 造型刷新・リペイントと何度も色形を変えてきた、本シリーズのバルタン星人ソフビ人形。600円時代最後のこの造型は、自身の頭の重みで「頭垂れる」状態になっている、バルタン星人特有のシルエットが再現されていて好きだ。何度も言うが、バルタン星人は俯いていてこそ本懐である。


700円ソフビ『ウルトラ怪獣』シリーズ
バンダイ


 700円になってから一発目の、バルタン星人ソフビ人形だ。造型は600円時のものを踏襲している。成型をブラッククリアーにして、「夜のバルタン」をイメージ。胸部と下半身の、浮き出させたようなうっすらブラウンの塗装は、毛虫を髣髴とさせて厭味である。


ソフビ『ウルトラ怪獣』シリーズ
(イベント・ショップ限定品)
バンダイ 1997年


 ブラッククリアー成型で、目のイエローだけを塗装したものだ。これだけ潔いと、なるほど「夜のバルタン星人」である。手間もかからず、また「限定品」という附加価値を巧い具合に利用した成功例だ。


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『HGソフビ道 ウルトラマン』
シリーズ其ノ一
バンダイ 2001年


 ミニサイズでこの価格(200円)。そしてこのソツの無い出来なら、これ以上特に望むもの無し。しかし「このソツの無さ」が却って難で、「このシリーズのバルタン星人はここがこだわり」のような思い入れ、もしくはアクセントや灰汁がほしかった。


『HGソフビ道 ウルトラマン』シリーズ
ハイパーホビー附録
バンダイ 2002年


 ストロボ効果による分身中のバルタン星人のイメージ。HGシリーズでの同じ意匠のものは目の塗装などがあるが、こちらは全くの無塗装だ。クリアー素材成型・無塗装にありがたみは無いが、これはまあ雑誌の附録だから許せる範囲。


『プレイヒーローモンスター 
ウルトラマンモンスターズ』
シリーズ
バンダイ 2007年


 「夜のバルタン」をイメージした彩色。ハサミ上下をとめている「ビス」のモールドまで再現。イエロー系のボカシ塗装は、毛虫や毒虫の斑紋のようで気色悪く、バルタン星人のイメージとは異なる。造型は良いのだが。

『HGウルトラマン イマジネイション』
シリーズ Part 2
バンダイ 2003年


 防衛隊の「はげたか」による攻撃を受けて、別個体へ分身する瞬間のバルタン星人を、セミだからなのか、あたかも脱皮するかの如くイマジネイションしたものだ。足元の抜け殻状のバルタン星人と、羽化(?)したばかりなので下半身の色素がまだ定着していないバルタン星人とが、織り成す妙味に注目。侵略宇宙人の人智を遥かに超越した生態が、巧く解釈されている。


『新タイムスリップグリコ』
シリーズ 第3弾
グリコ 2002年


 夜のビル街の屋上で身構える科特隊の前に、巨大化したバルタン星人がその巨大な顔をヌッと現わした場面を、グリコのオマケのコンパクト・サイズにまとめた見事なビネット。未知なる巨大なものが人の前に姿を現わす瞬間、まさに「日常の瓦解」が、掌に乗る小さき世界としてそこに存在している。

『特撮ギャラリー』
シリーズNo.1
バンダイ 1998年


 ビル街で対峙する、ウルトラマンとバルタン星人。ウルトラマンはスペシウム光線のポーズをとっているが、実際には飛んでいるバルタン星人を撃ち落とすために放ったので、これは本編にはないシーンだ。しかし万人の中には、このイメージが深く根を下ろしている。


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『ウルトラ怪獣解剖図鑑』シリーズ
バンダイ 2004年


 昭和当時『少年マガジン』などで展開された、大伴昌司の手による怪獣解剖図解を、開田裕治のイラストで再現。それをフィギュア化したものである。なので意匠は昭和、スタイリッシュな外観は平成と、中途半端な企画物だ。結局シリーズ化には至らないで、バルタン星人カネゴンエレキングの3体のみで終了してしまった。結果、珍品。

『ウルトラ怪獣名鑑シリーズEX
ウルトラパノラマファイト』
ラウンド1
バンダイ 2006年


 名鑑シリーズの脱線。『壮絶昆虫型怪獣決戦!!』と銘打たれた、バルタン星人アントラー。こちらも昭和当時、児童書などで展開された怪獣同士の夢の対決。それの再現だ。こういった架空物は、本来見られない怪獣たちの動きの大胆さを楽しめる上に、想像を掻き立てられる。しかし両者このクオリティで、全身像が欲しかったところだ。アントラーなどは、砂に埋まった下半身が惜しまれる。

『ウルトラパノラマファイト –怪獣大決闘-』
バンダイ 2008年


 もともと名鑑シリーズのスピン・オフ的企画としてスタートした本シリーズ。この弾では『名鑑』の冠が外されるが、何はともあれこれが最終弾という触れ込み。バルタン星人のアソートは、『パノラマファイト』では前掲第1弾に継いで二度目。と言うか、此度は“バルタン祭”とでも言うべきラインナップ。全6種中2題がバルタン星人を採り上げたもので、初代・二代目・Jr.・五代目・ベーシカル・ダークと、各年代のお歴々が入り乱れて戦いを展開している。『嗚呼!侵略作戦会議物別れ決戦』を謳う本タイトルにあっては、初代・二代目・Jr.の“昭和バルタン”が三つ巴。初代の発する光線を、二代目は光波バリアで、そしてJr.はビルガモで回避するといった刺激的激闘の様を活写。「群体生物的性向である筈のバルタン同士が何故?」などと云う、遊里の事情を弁えない不粋は何処吹く風。「いや群体生物であると同時に、窮めて高い水準の知的生命体でもあるのだから、争いもまた理」と、想像を逞しゅうさせてしまう処に、“パノラマファイト”の本懐が在るのだ。さて出来だが。斯様な極小スケールとしてはこれが限界、造型・彩色ともに持てる力量を尽くし遂せたといったところ。各バルタンにおける装飾の精緻さ、またそれぞれの体表に施された擦過表現などは、筆舌に尽くし難し候。であるからこそ、この超ミニチュアールがどうにも惜しまれる。ビルガモを入れれば、計4体が一つの台座上に立ち居並ぶ造作。名鑑よりも高位(スケール・値段ともに)のシリーズであるにも関わらず、それより小さくなってしまうのは致し方無し。と、それは解かる。解かるのだけれど...。


『ハイパーウルトラマン』シリーズ
バンダイ 1999年


 メタリックとクリアーのバルタン星人。ウルトラヒーローのほかに、このバルタン星人2体がラインナップされた。造型が良いだけに、無彩色が悔やまれる。同じような商品でタイにて発売されたものは、フル彩色で目にはクリアー素材を使い、ハサミも開閉ギミックがついていて素晴らしかった。

『HGブルマァク魂』シリーズ 2
バンダイ 2001年


 昭和当時のブルマァク人形を、色形をそのままにカプセルトイサイズに再現したもの。マルサン1期カラーリングである。子どもの頃からこのブルマァクの人形に関しては、「何でこうもテレビに出てきたやつと違うのかな?」と不満だらけであった。それでも友だちの家にこのみどり色のバルタン星人を見つけたりすると、当時はなかなか買ってもらえなかったものだから羨ましく思ったものである。このズン胴バルタン星人は、今となっては愛らしい。

『HG 真ブルマァク魂』シリーズ 1
バンダイ 2002年


 カプセルトイから移行して、ヘッダー付きでビニール袋入りという、体裁まで昭和当時のものを再現した。マルサン珍色カラーリング。カラーバリエーションを色々出すくらいだったら、その分もっと種類を出して欲しかった、このシリーズ。結局、次の弾で終了してしまう。しかし「珍色」って...

『HGウルトラマン イマジネイション』
シリーズ Part.3
バンダイ 2004年

 『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」より、デパートの玩具売り場に出現したピグモンのイマジネイション・フィギュアに、昭和往時を偲ばせるアイテムとして附属。当時圧倒的人気を博したブルマァクの怪獣人形を、極小サイズにミニチュア化したもので、バルタン星人のほかにウルトラマン・レッドキングカネゴンという並びが擽られる。斯様な簡素化にあっても、愛らしさの失墜は見られず、いやむしろその凝縮された形象に宿っているのは、殺人的愛狂おしさだ。そこにブルマァク人形の凄味が在る。


『ザ・ウルトラマンファイト』シリーズ
バンダイ 1999年


 科学センターを前にしての、ウルトラマンとバルタン星人の取っ組み合い。本編には無いシーンだが、第一回撮影会時の特写でお馴染みの、誰もが知ってる名場面だ。余談だが、このときウルトラマンのマスクにまだ覗き穴は穿たれておらず視界ゼロ、一人では歩行もままならぬ状態であった。それを見た金城哲夫は、絶望的な呻き声を上げたという。さてこのフィギュア、バルタン星人の捩れ具合と、ウルトラマンのAタイプマスクがいい感じである。箱の裏面を切り取って、背景の空として据えられる意匠が凝らされた。この名場面、『名鑑』か『戯画』のクオリティで商品化を希求する。

『特撮ヒーローズ』シリーズ 「ウルトラマン」
プレックス 2006年、
           2009年(再販)


 2001年のバンダイ『SDM』シリーズ以来、怪獣物におけるスーパー・デフォルメ、即ち“SDフィギュア”の衝撃再来。頭部に嵩比重を置いた、2頭身によるバルタン星人だ。SDバルタンの場合、ややもすると両腕のハサミが頭部ないし胴体に密着した格好で一体造形されがちだが、本シリーズではきちんと独立しているのが嬉しい。最大の存在証明を誇示する侵略者の、気構えが伝わって来るというもの。練達された歪形のアレンジ・センスによる造型は申し分無く、殊に三日月状に内側へ抉れた顔面にあっては、SD形状ながらも、確と「本邦一有名な宇宙人」の稜線を見事描き出している。表敬脱帽。眼球と囲繞部位に配された黄と白の截然が、昆虫型宇宙人ならではの生態的機能を顕現、恰もそこに無感情で冷酷無比な光を見るようだ。尚このことは、口吻部における銀と赤についても同じ。「よく出来た“SDバルタン”」であるからこそ、ブルーグレイ一色で済まされてしまった、ほぼ全身の塗装が悔やまれてならないのだが。


『SDMエスディーミュージアムウルトラマン』
シリーズ 1
バンダイ 2001年


 「SDスタイルのウルトラフィギュア革命」とも言うべき、緻密さの衝撃。残念ながら第3弾で終了してしまったが、後続のSD物に多大な影響を与えた。バルタン星人のこの顔の緻密さは、もはやSDの域を超越している。


『ワンダーカプセル ウルトラマン』
シリーズ第2弾
バンダイ 2002年


 卵型チョコの中にカプセル、その中にフィギュアという入れ子構造は、体のいい『チョコエッグ』スタイルだ。小さいながらもこの塗装には舌を巻く。そしてこんなに小さいくせに、ちゃんと俯いているのが、何とも小憎らしい。


『ウルトラマン全集』シリーズ
バンダイ 1995年


 バルタン星人のほかに、ペギラレッドキングアントラーニセ・ウルトラマンゼットンウインダムキングジョー・アーストロン・グドン・ツインテール・エースキラー・タイラントと、ラインナップ充実に目を見張る。昔の玩具っぽさが、なかなかの味わいだ。


食玩
詳細失念
バンダイ 1996年


 記憶ではスペシウム光線初の立体化である。ほかにネロンガジラースミクラスエレキング・タッコング・キングザウルス三世・ベロクロン・ヒッポリト星人・アストロモンスなど、ヒーロー、怪獣、メカが充実のラインナップだった。


ウルトラマン ボトルキャップフィギュア
三ツ矢サイダー 2003年


 映画『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス』公開に先駆けて、三ツ矢サイダーのペットボトルに付属。ボトルキャップタイプのフィギュアながら、精緻な細工には目を見張る。造型・彩色とも、ボトルキャップ・フィギュアの中ではマストだ。


『ウルトラマン Bot-Biz』
PART.1
ラナ 2002年


ボトルキャップ・フィギュアという極小サイズのバルタン星人に果敢に挑むも、造型・彩色技術がまるで追いついていない。特に脇腹に癒着したような腕がダメ。あたかも腰からハサミが生えているように見えてしまう。このシリーズは、次弾から飛躍的な技術革新を遂げる。


ウルトラ空中大激突 ボトルキャップG
ポピー 


 ボトルキャップという、安定感が約束された利。それを活かした飛行タイプのバルタン星人。目新しさは飛行ポーズという一点だけで、肝腎のフィギュア自体がボトルキャップと比べて小さく、極めて量感に欠ける。

『復刻堂ヒーローズ缶』シリーズ
ウルトラ大怪獣レモネード
ダイドードリンコ 2010年


 Dydo飲料の“復刻堂”ブランド。その第3弾に、ウルトラ怪獣のデザイン缶が登場。

 これの前年、ウルトラヒーローだけのラインナップで幕開けた本シリーズ。銀と赤が織り成す“ウルトラの表徴”を、潔く切り取ったアレンジが鮮烈であった。遵ってこのバルタン缶のように、「顔を見せてしまう」のは窮余、不粋で小狡いのである。なので、ゼットン缶やメトロン缶、そしてキングジョー缶などは、面体を晒さずにアイデンティファイしてのけた分、瀟洒であると言えよう。

 彩度を抑えたパステル・トーンによる配色が、果汁風味の甘気をそこはかとなく醸しており、持つ手にも馴染む。怪獣の毒気は、さて何処へやら。愈々「怪獣を飲んでこます」時代の到来か。

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