台風13号が伊豆半島を直撃・通過した翌日、被害を受けた宇浪里町が復興に立ち上がる中、ウラン鉱山付近の国道復旧工事現場の地底より出現したウラン怪獣。土砂災害によって脆弱になった地盤、そこへ持って来ての復興作業が地表への進出を促したのだと思われる。その別称が示すとおり放射性元素・“ウラン235”を常食としており、これを燃料にして口から白色放射能光線を放出。攻撃時は疎か、ウラン摂取時にも放射能を吐くので、危険極まりない上に迂闊に手出しも出来ない。皮膚は鋼鉄の5倍もの硬度を誇る頑強さ。これらの特性について、科学特捜隊、または地元住民によって周知されているところから、過去の重出が推察される。頸部を襟巻き状に囲う六葉のヒレは、平時には密閉され頭部を保護、同時に尖頭形状を駆使して地中を掘り進むという利便性だ。その上部2枚の下辺一部が虫食いの葉のように欠けており、ヒレが閉じた際にはこの部位が仮面の覗き穴となる形状は優れて機能的である。またヒレ外部が銀、内部が赤というコントラストは鮮烈で、これが戦闘時における威嚇効果として作用しているかは不明。しかしヒレの閉塞時と全開時との間に生ずる容貌のギャップには、少なからず喫驚を禁じ得ない。ヒレの開放はウラン摂食時と、放射能光線射出時、すなわち敵との交戦時に限られ、その際には四足歩行から後肢二足立ちの体位となる。地表出現後は好物のウラン235を求めて宇浪里町の家屋を破壊、ウラン貯蔵庫が在る安部町へと進撃した。が、「ガボラ防止工作」なる火炎放射隊の攻撃で町への侵入は阻止され、進行コースを台風被害で孤立中にあった山岳少年団のキャンプ地へと採るも、ウラン入りカプセルをヘリコプターから吊り下げた科特隊の誘導作戦によって山中へと導かれる。さんざおあずけを喰らい業腹、ここに到って漸うヒレを展開して、その武骨な面構えを初めて露わにした。ウルトラマン相手に尻尾のスウィングと白色放射能光線で応戦。しかしこれを躱わされ飛び蹴りを喰らい、上部ヒレ2枚をもぎ取られ、空かさずのパンチ攻撃、そしてトドメの首抱え投げという間断無い連続攻撃で到頭果てた。眼光が消滅したところから見て、絶命したものと思われる。
鈍重な体躯に漲るパワフルな膂力。ガボラの巨躯のルーツを辿れば、東宝の『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(1965年)に登場したバラゴンに行き着く。このボディ部の縫いぐるみを東宝から借り受けた円谷プロは、頭部を挿げ換えてパゴス(『ウルトラQ』第18話)へ改造、その後またもや頭部を新造してネロンガ(『ウルトラマン』第3話)とし、更にその上に過剰なデコレーションを纏わせマグラー(『ウルトラマン』第8話)を創り出し、そして流用5体目にしてガボラが誕生したという訳だ。何とも長き遍路である。往時の円谷が縫いぐるみ新調のための費用捻出に喘いでいたとは言え、斯様にも度重なる改造流用はほかに類例を見ず、またこれら“バラゴン系列怪獣”はその抜きん出たリサイクル頻度で有名だ。「勿体ない」という言葉が持て囃される昨今の風潮であれば、間違いなく優秀な“エコ怪獣”であったことだろう。
さてバラゴン系列怪獣の頭部については、上記ネロンガを最後に以降は新造されておらず、したがってその2体後に作られたガボラの顔は、ネロンガのものをベースとしている。1体先代のマグラーからトゲトゲの装飾を引っ剥がし、黒色からブラウン系に再塗装、鼻先の1本角を除去し、最大特徴である六葉のヒレを頚周りに付け加えたのが概ねガボラの全容だ。(ガボラの表皮に点在する黒色の塗り残しに、マグラーの名残りを見ることができよう) この改造作業にあたったのが、ネロンガ以来の同ボディ部系列怪獣を手塩にかけてきた佐々木明である。
劇中におけるガボラを具に観察すれば、頭部を吊るすテグスの存在にすぐ気付くだろう。薄っぺらいヒレを、開いた花弁のようにピンと張らせるためならいざ知らず(実際ヒレにもテグスを使用)、中に人が入っている頭部をテグスで吊るし支えるとはどういう了見だろうか。これについては単に「重い」ということと、使われた材質の風化変質ということとが考えられる。頭部にあっては、ネロンガから数えて3体目に当たるガボラ。ボディ・スーツの経年劣化とともに、頭部の疲弊・へたりもまた相当深刻なレベルだったのかも知れない。顔の自立もままならぬ程に。そう考えれば頭頂から上方へ向かって張り詰める“吊り線”に合点がゆくというもの、その一縷には哀愁さえ喚起されよう。「お疲れさま」を言ってあげたい。
ちなみに、このさんざん使い回されてきたバラゴン・ボディ。「電光石火作戦」撮影後は、アトラクション用ネロンガへ再改修、そして漸く古巣の東宝へ返却され『怪獣総進撃 』(1968年)で再び地底怪獣バラゴンとして陽の目を見た。バラゴンに始まりバラゴンに終わる。まさに有終の美。1965年に産声を上げた地底怪獣は激戦の遍歴を掻い潜り、およそ3年後に元の姿へと回帰したのである。「お疲れさま」とそして、「お帰りなさい」を言ってあげたい。
さながらプテラノドンなどの翼竜、若しくはモササウルスら海棲爬虫類、それら古代生物に通底したブレード状に尖った頭骨を髣髴とさせる、ガボラの“顔面ヒレ閉じ”状態。唯ひたすら鋭利に、前へ先へと先細り、窄み収斂される喙頭。その製図用具の烏口の如き鋭角が六分に裂け、恰も花弁のように開くことによって、180度の変転を遂げる“顔面開花”。ガボラの醍醐味・ハイライトは、まさにその綻びの瞬間にある。この奇想な開閉ギミックを発意したのは、ウルトラ怪獣デザインのオーソリティー・成田亨だ。
そもそも“ヒレ閉じ”時における密閉の度合いは、「開く」ことの前提を拒絶しているかのようである。その銀色の嘴から六葉の赤い花弁に転じるという、形状と色彩のコントラスト・変容っぷりは鮮烈極まりない。内部に潜んでいた顔が、実は鋭利さとは程遠いイメージの、“狂い牛”を喚起させる武骨面であるというギャップも秀逸だ。露わになった“ネロンガ顔”は、頚周りの旗幟鮮明な朱によって隠然と打ち消される。また虫食い葉のように一部が欠けた上部ヒレ2枚の形状は、閉塞時には覗き孔として視野の確保に作用するという仮面的発想が素晴らしい。有り得べくも無いが、不思議と首肯せしむる有り得べき生態的機能美だ。その穿孔の僅かな間隙から漏れ出る異形の息遣いに、変貌への期待感が高揚、胸躍り血潮も滾るのである。「さあっ、現われろ!別の顔!」と。
これに酷似した喫驚の興奮はその21年後、映画『プレデター』(1987年)によって呼び醒まされよう。勇者・ダッチ少佐(演:アーノルド・シュワルツェネッガー)に相対し、遂に金属製の仮面をかなぐり捨てた捕食者・プレデター。そのおぞましき形相の現出は、ガボラの“顔面開花”にも似た劇的瞬間だ。「変わる」ことを予め推され且つ待望される仮の面、そしてその期待さえ痛快に裏切る意想外な顔、その顕現のとき。完全閉鎖から完全開放、嘴から花、銀から赤、そして狂い牛。ウランの捕食者が変態するその刹那、毛孔粟立つ身に覚えが、ウルトラ原体験として記憶に刻印されるのである。
「怪獣をゼロから創造」を信条としていた成田は、“不本意”とも言える縫いぐるみ流用・改造にあっても、唯では転ばなかった。それはパゴス・ネロンガ・マグラー・ガボラら、“バラゴン系列怪獣”のお歴々の面々を見れば瞭然である。これらが同じ体躯、または同じ頭部を持つ怪獣たちの容姿であると、軽々に断じることができようか。殊にガボラに到っては上記開閉ギミックを仕掛けることによって、もはや流用・改造などという枠枷を超越したと言えるだろう。単なる流用で終わらせない、単なる改造で済まさない。前衛美術家・成田亨の飽くなき創意工夫の結実が、開閉などの仕掛けによって表情を違える変幻怪獣であり、その賜物のひとつとしてガボラの“顔面開花”があるのだ。
ちなみに成田はこういったギミック仕掛けを以って、大胆にも二態に変化する怪獣のデザインを幾つか手がけた。たとえばケムラー(『ウルトラマン』第21話)などは、ガボラと並んで傑出した変幻怪獣の類例と言えよう。普段は閉じている背面2枚の甲羅を、尻尾の付け根を軸として「Vの字」に開くといった奇想天外なアイデア。また甲羅の外装は地味な灰色一色で、内装は赤・黄・黒による色彩豊かなパターン紋様の装飾というコントラストと併わせて、ガボラのそれと相通ずるところがある。そのほかに、角の回転によって繊細な変化を見せるネロンガ(『ウルトラマン』第3話)、更には身体各所の外装を取り払うことで夥しい筒状の突起が整然と立ち居並ぶ強烈な姿態を晒した、その名も“変身怪獣”ザラガス(『ウルトラマン』第36話)など。決して多くはないのだが、「ひと粒で二度おいしい」的なお得感に、テレビの前の子どもらは沸騰したことであろう。シュルレアリスト・成田亨の悪戯心が仕掛けた甘美なる罠。それをまんまと享受させられた私たち昭和少年。蜜月の仲。
ところで“ヒレ開放”時におけるガボラは、顔を中心として放射状に伸びる六条の「赤」が鮮烈だ。生物にあってこのような色調は突飛で、ともすれば嘘臭いものとして目にも映ろう。そうなれば怪獣も単なる空想の産物、電影擬似世界を彩る一素材に堕しかねない。1970年代中頃、特撮番組が多産される中、確かにこういった「不自然極まりない赤」を帯びた怪獣・怪人が頻出した。子どもながらも辟易とした想い出がある。生物における「赤」は、デリケートだ。縦しんばそれが想像上のものであっても、よほど慎重に扱わなければ、折角の実写もマンガやアニメーションの住人に化してしまうという危険性を孕んでいる。(と言って、マンガやアニメーションを否定するものではない)
しかしそうはさせない匙加減、寸止めの妙味が成田亨の畏怖すべき才覚なのだ。思えば軍艦鳥が膨らます咽喉嚢やマンドリルの鼻面、もっと身近なところで家禽すなわちニワトリの肉冠など、我々は驚嘆すべき自然動物界の「赤」を知っているではないか。自然は時として生き肝を抜く仰天顔を見せる。成田怪獣の「赤」は、そのような謂わば“自然界のいたずら”の枠内で息衝いているからこそ、「あるかもしれない」という説得力を帯びるのだ。ある意味それは、自然界の法則や摂理への遵守とも捉えられよう。芸術家として成田は、“大いなる自然”を敬愛していたのである。
とは言えしかし。自然に準じた「度を越さない」按配の配色ではあるが、いま一方でガボラにおける「赤」は、もはや生物としてリアルかどうかなどという域を超え、怪獣自体を形作るアイデンティティとして作用、もっと気楽に言えばチャーム・ポイントとして発色する。子どもがガボラの絵を描くところを想像してみれば、六枚のヒレを塗り潰すために、ひたすら赤クレヨンを磨り減らす様が在り在りと思い浮かぶようだ。心血は「そこ」に注がれるのである。
見るものをして心砕かせる「赤」。たとえばドラコ(『ウルトラマン』第25話)の翅に見られる赤斑、ザンボラー(『ウルトラマン』第32話)の背面中央部に屹立するトゲトゲ、そしてジェロニモン(『ウルトラマン』第37話)の頭頂部を彩る羽根飾りなどが、ガボラの「ワンポイント・レッド」に追従していると言えよう。更には、ゴドラ星人(『ウルトラセブン』第4話)の上半身におけるまるでベストの着衣を髣髴とさせる赤、また地味なギラドラス(『ウルトラセブン』第20話)にアクセントの灯火を灯す牙と角の赤などなど。いずれも“自己主張”と“お上品”とが、絶妙なバランスを保っている成田怪獣の「赤」だ。その効果的配色は見るものの脳裏を直撃、怪獣全容の像結びにおけるアクセントとして作用するのである。
そしてこういった「部分赤」怪獣は、たとえば『帰ってきたウルトラマン』のマグネドン(第20話)やノコギリン(第26話)、オクスター(第30話)などのように連綿と引き継がれており、その系譜は不滅だ。意外性に富む効果的な「赤」は、もはや怪獣を構成する不可欠なエレメントと言って良いだろう。なれば創始として、成田の野心的な試みと類い稀なるセンス、そして忘れてはならない自然への尊崇があったればこその恩寵なのである。
実は本エピソード・「電光石火作戦」では、『ウルトラQ』のパゴス(第18話)が再登板する予定であった。ガボラがウランを嗜好するということと、その特性が既に人びとに認知されている点などは、シナリオ或いは脚本の初稿段階において、登場する怪獣がパゴスとして描かれていたことに起因する。それが急遽新怪獣の登場を希求され、金城哲夫の勘案によって「パゴスの分身=ガボラ」へとキャラクターの変更が為されたのだ。
このような事情を鑑みれば、ガボラは急場凌ぎのために誂えられた、謂わば“急造怪獣”ということになる。しかしこれまで述べてきたように、ガボラにはそんな“間に合わせ”感などは何処吹く風、新造怪獣として意気揚々、画面狭しと暴れ回った。それが偏に誰のお陰なのかは、もう言わずもがなであろう。
兎にも角にも変わり身。ガボラ最大の見せ処・醍醐味は、その一点に収束される。嘴状に尖ったシルエットが「パッ!」と開いたとき、「あっ!」とさせられた昔日の感慨は今尚色褪せることがない。「パッ!」、そして「あっ!」。背筋を数千の虫たちが這い蹲い、微細な発泡がひた奔るほんの僅かなコンマ何秒か。その絶対的体感は、まさにウルトラ原体験。刹那に賭けた瞬間芸こそが、ガボラの魅力の発信源なのだ。
そしてガボラは、痛ましい最期の変幻を遂げる。ウルトラマンとの死闘の終局、自慢のヒレを生え際から2枚毟り取られ、顕われ出でたるその顔。鮮烈な赤のヒレ飾りが取り払われたことによって、視線は否応無しに“裸”にされた顔そのものに集中する。ひと際目を惹く放射状のヒレを含まない肖像、言わば化粧気の無い面相こそがガボラの真性、すなわち“素顔”なのだ。仮面→装飾→素顔。ガボラは実に、三態変化を遂げるのである。
そもそもはネロンガ由来の鼻先の角が除去されており、そしてアイデンティティであったヒレさえも失ったために、恰も山林で言うところの“丸坊主状態”と化してしまったガボラの惨憺たる素顔だが。既述のようにその表情は“狂い牛”を髣髴とさせるが、頭部を形作る土台基盤は、爬虫綱カメ目のそれのようでもある。糅てて加えて横にワイドな口腔と、その広き口から更に外へはみ出し、下から天へ向かって生え伸びる弓状に湾曲した左右対の鬼歯、つまり牙。これらの要素が肉付けされた頭部及び顔面に、ゴジラと双璧を成す昭和銀幕におけるいま一匹の名怪獣、すなわち“ガメラ”(『大怪獣ガメラ 』1965年~)との相似を見ることができよう。
奇しくも次エピソード・第10話「謎の恐竜基地」のジラースと併わせて、2週に渡って登場することと相成った“襟巻き怪獣”。ガボラの最終局面においてはガメラの顔を見て、そしてジラースのそれにあっては言わずもがな、ゴジラそのものを見るのである。嗚呼!
ガボラの縫いぐるみ演者は、ゴジラ役者として馴染み深い中島春雄だ。そもそもバラゴン自体が、演者であった中島の体躯に合わせて作られていたのか。オーダー・メイドさながらのフィット・サイズをして、その後のパゴス(『ウルトラQ』第18話)やネロンガ(『ウルトラマン』第3話)、そしてガボラら“バラゴン系列怪獣”への中島起用は当然合点がゆくというものだ。
無論推測だが、そこには自身のためだけに設えられた着心地の良さがあったのかも知れない。もはやバラゴンのボディは中島愛用の被服、または中島の身体髪膚そのものと言えるだろう。幾度となく袖を通し着古した“熟れ”こそが、パゴスをネロンガをそしてガボラを、愛車宜しく潤滑に駆動させたのである。
但しマグラー(『ウルトラマン』第8話)と『怪獣総進撃』(1968年)版のバラゴンについては、中島の操演ではない。どういった事情が介在したのかは不明だが、他の演者が起用されている。したがってこのガボラを以って、“中島バラゴン”最後の雄姿と位置付けたい。
千変万化、様々な変容の遍路を辿って来たバラゴン・ボディは、それら宿主内部に生命を入魂させた宿泊主、つまり中島春雄の旅路とともにあるのだ。ウルトラマンにヒレをもぎ取られ、間髪入れず殴打・殴打・殴打の嵐、挙句に首抱え投げを喰らって息絶えたガボラの最期に、中島バラゴンの断末魔、その悶絶の様を累ね見ようではないか!合掌。
ハリウッド映画スタッフの独特なアレンジ・センスによって、秀逸なリメイク怪獣たちが息吹いた快作『ウルトラマンパワード』(1995年)。分けても“パワードガボラ”(第5話「電撃防衛作戦」登場)は、映画『トレマーズ』(1989年)に登場した地底生物“グラボイズ”を髣髴とさせるフォルムがいかにもアメリカっぽく、クリーチャーとしての精彩感が傑出している。ハリウッド流儀でリ・デザインされた成田怪獣、その天晴れな転生例だ。
さてこのパワードガボラ。オリジナル・ガボラとの外見上における大きな相違点はと言えば、異様に長い爪や六葉ではなく四葉のヒレであるということ、そして全身がウラン鉱石で覆われている点などが挙げられる。だがパワード版を特徴付けている最たるものは、何は置いてもその凶悪な面構えであろう。白目を剥きだした凶相は、明らかに昭和版とは一線を画す。
また終始閉じられたままの防護ヒレのため、このかんばせの拝見に与れるのはラストの一瞬だ。剰えオリジナル・ガボラとは違ってヒレは全開せず、言わば「半開き」状態、まるで可憐なチューリップの蕾の奥底に潜む邪悪な魔物を垣間見るようである。ヒレ内部のバイオティックな「糸引き」も気色悪い。やはりここでも、刹那に賭けたガボラの瞬間芸が活きているのだ。
序でになるが、2001年。『ウルトラマンコスモス』に登場した古代怪獣ガルバス(第13・14話)こそは、その名のアナグラム性、横に広い口腔が特徴的な顔つき、そして頚周りを覆うヒレなどから拝察して、ガボラへのオマージュ的意図が汲み取れる...と思うのだが、如何だろう?
ガボラの出現地点は、伊豆半島・宇浪里町はウラン鉱山付近の国道復旧工事現場。その地底。宇浪里町の住民たちは、このガボラの存在を既知していた。既述のように、もともと前作『ウルトラQ』のパゴス(第18話)が登場する予定であったため、「何故か」人びとに知れ渡っている“ご存知怪獣”となってしまった訳だが、これがケガの功名、過去の出現例を匂わせる設定付けに転ずるから面白い。
ではここで、台風とガボラのために右往左往を余儀なくされた宇浪里町の人びとを紹介しよう。
慈しみの眼差しを以って、子どもたちの姿を活き活きと描く。本エピソードは、そんな山田正弘流儀による脚本だ。「電光石火作戦」などと銘打ち、放射能を撒き散らす怪獣が2人の少年に迫り来るというスリリングなドラマ展開であるにも関わらず、何処か牧歌的な抒情ムードを帯びた作品性は、これはもう山田ならでは。思えば前作『ウルトラQ』の山田脚本作品、第12話「鳥を見た」や第14話「東京氷河期」、第18話「虹の卵」、そして『ウルトラマン』第6話「沿岸警備命令」など、大怪獣出現に際し風雲急を告げる緊迫の物語に、溌剌とした子どもらのドラマを織り混ぜた絶妙な交錯劇を、我々は知っているではないか。決して殺伐としない。さも“金城哲夫イズム”に歩調を合わせたよな筆致こそが、山田正弘の持ち味なのである。
なればそういった作風からすると、「電光石火作戦」などという大仰なタイトルには、少なからず違和を覚えよう。実際ガボラの動作はどちらかと言えば緩慢で、尚且つガボラを誘導するのはヘリコプターである。そこに“電光石火”の如き迅速さは無きに等しい。確かに物語の主軸は「ガボラの誘導」ではあるのだが、同時進行する2人の少年が直面した危機劇の重きを鑑みれば、然るべきタイトルの付け様がもっと他にあったのではなかろうか?同じ山田脚本による第6話「沿岸警備命令」についても、同様のことが言える。海獣ゲスラ上陸を阻止せんとする物語に、ホシノ少年らと宝石密輸団との冒険活劇が並行展開、「沿岸警備命令」という銘打ちにはいまいちピンと来ない。このような、作品内容から受ける印象とそれに付されたタイトルとの間に見られる齟齬は何か?大上段に構えた“作戦”や“命令”などを謳う刃の切っ先は、一体何処を見据えているのだろうか。
実はそのような仰々しい題名の数々こそが、『ウルトラマン』という作品の本質を言い得ているのである。つまり『ウルトラマン』なる物語が、ヒーロー・ウルトラマンを主人公としているのではなく、怪獣と、それに相対する他ならぬ我々人類を主役に据えているということだ。更に突き詰めれば、その人類像を象徴的に体現しているのが科学特捜隊なのである。なれば“作戦”だの“命令”だの宣う大層な物々しさにも、合点がゆくというものだ。
ままならぬ事情で人間社会に出現してしまった怪獣、それに対して科学特捜隊がどう対処するか。骨子・眼目はそこ。救世主・ウルトラマンが登場するラストまでは、「怪獣対人間」の丁々発止がドラマを牽引・先導するのである。ウルトラマンの活躍などは、物語を終息させるための“添え物”、と言ったら語弊があるが、少なくとも主題足り得ない。それはウルトラマン誕生物語の第1話であるのにも関わらず、「ウルトラ作戦第一号」と付けられたタイトルに象徴的だ。“ウルトラ作戦第一号”とはつまり、竜ヶ森湖湖底に潜む宇宙怪獣ベムラーを地上へ燻り出さんとする科学特捜隊の作戦名である。“ウルトラ”と冠にあるが、その実ウルトラマンと何らの関係性も無い。最終話「さらばウルトラマン」というタイトルも、大いなる存在であるウルトラマンとの訣別に際し、人類が発した決意表明の言辞なのである。
そして「電光石火作戦」だが。これまで幾度か述べてきたように、もともと『ウルトラQ』のパゴスが再登場する予定だったこのエピソード。脚本の初稿段階における「パゴス反撃指令」なるタイトルも、科学特捜隊ないしそれに準じた人間組織が遂行する任務っぽさを匂わせているではないか。これが改訂され登場怪獣がガボラに変更されても、「ガボラ誘導せよ!」そして「電光石火作戦」と、徹底して“科学特捜隊主役”を強調するお題目で貫かれている。改稿を重ねても尚変わらぬタイトルの性質から浮き彫りにされるのは、やはり「『ウルトラマン』=人類の物語」という骨格構造なのだ。
以上のように、“作戦”やら“命令”やらを振り翳す各話の題名付けから、『ウルトラマン』の物語における主導権が、科学特捜隊(=人類)に在るということが見えてきた。そしてそれら精選された文言が発する堅さには、「人類は自らの力で自立せねばならない」という堅褌一番、何が何でも成さねばならぬ決死の覚悟が込められているのだ。「漠とした玉砕の意志は滾り行為へいや増せよ」と、勇ましくも歌ったのはヤプーズの戸川純(『ダイヤルyを廻せ!』より「Men's JUNAN」 作詞:戸川純 1991年)。「科特隊のテーマ」(作曲:宮内國郎 1966年)の基盤を為すベース・ラインが、軍隊行進曲のそれを思わす律動であるのも、そういった作品性の意趣を汲んでのことか。いずれにせよ何処かしら長閑で牧歌的な山田作品ではあっても、「電光石火作戦」や「沿岸警備命令」などのように、戦時下を喚起させるような旗幟がはためくのである。
ウランを食べて放射能を吐く。国産怪獣の創始であり王たるゴジラ(『ゴジラ』1954年)がそうであったように、怪獣の危険性を示威するものとしては絶好のプロフィールだ。何となれば我が日本は、被爆国であるのだから。往時の当該者でなくとも、日本国民として「ヒロシマ・ナガサキ」の恐怖は、学校教育などによって少なからず身に滲みている筈。曰く「日本は原子爆弾を落とされた世界唯一の被爆国」、「広島・長崎は瞬時にして焦土と化した」、「被曝症が今尚落とす暗い影」云々...。そう、我が国で怪獣を描こうとすれば、“脅威の象徴”として放射能や核などは、切っても切り離せないエレメントとして頭を擡げるのである。
したがってウランの如き劇物を摂取し、そして放射能を放出するなどという非常識極まりない設定付けは、是総て“怪獣”が帯びている観念性、心的形象の発露なのだ。「そんな物を食べて体は大丈夫なのか?」とか「蛋白質・脂肪・炭水化物などの栄養素確保はどうしているのか?」など、怪獣はそういった陳腐な領域の外に息衝いているのである。常識の度外視大いに結構。それでこそ怪獣。放射能を食べ放射能を撒き散らして然るべきなのである。殊に我が国にあっては、放射能の脅威を以って、何物かを知らしめる存在なのだ。
たとえば『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」(欠番)では、母星の放射能汚染で著しく減少した白血球を補うために、地球人の新鮮な血を狙う被曝者・スペル星人の姿が描かれた。無論この脚本を書いた実相寺昭雄に、“反核”の意図があったことは容易に汲み取れる。しかしながら「被曝→白血球の異常減少」が呈するプロセスは、まさに我々人類の身体における影響そのものであり、「よって新鮮な血を求める」という展開はあまりにもストレートで生々しい。被曝者・スペル星人は、ゴジラやガボラのように「もっともっと放射能を欲する」ことはなく、ひたすら治癒を望むものである。だがそうなれば、もはや心的形象を描く怪獣ドラマの主人公足り得ない。よしこのエピソードがお蔵入りにならなかったとしても、スペル星人のような被曝者を体現する怪獣が、果たしてゴジラのように反核のシンボル的存在と成り得たか?甚だ疑問である。それほど「怪獣に核を纏わせる」という発意にあっては、繊細さが要求されるのだ。
ところでゴジラとガボラが「放射能を喰らう」という性質には、実は確たる違いがある。水爆実験の被害者であるゴジラは、被爆の影響で「放射能を欲する」体質に変化、生命維持活動の一環として放射能施設を尽く襲わざるを得なくなった、悲劇的命運体現の投影だ。因みに「放射能の影響で巨大化・怪獣化」という方便は、その後多くの被曝怪獣を輩出した。東宝映画ならラドン(『空の大怪獣 ラドン 』1956年)、『ウルトラマン』ならラゴン(第4話)などがゴジラの如き悲運に殉ずる。(尤もこれらが全て、放射能を摂取して吐き出すという訳ではないが) さてこれに対してガボラには、そのような経緯付けは全く為されていない。地上現出するや否やウラン貯蔵庫目指して進撃、そこに被曝との因果性は無く、生得から放射能を嗜好しているのである。これは、当初出演予定であったパゴス(『ウルトラQ』第18話)についても同じだ。被曝もしていないのに、そもそもが放射能好き。一体これは何を示しているのだろうか?
昭和41年。それまで銀幕だけのものであった“怪獣”の、テレビ進出の幕開けとも言うべきこの年。戦後20年が経過、もはや“核の恐怖”は、描くべきドラマを省略した象徴的記号と成り果てたのか?1950年代一時期は米ソなどが躍起となり、その後世界中からの非難嗷々を浴び、数を減じていった原水爆実験。現実世界のそのような趨勢もあってか、縦しんば架空世界のお話であっても、被曝怪獣の創出には無理があったのかも知れない。それでも日本人は、“核の恐怖”の何たるかを訴えるべく、怪獣に放射能を纏わせたのである。“被曝”という悲劇体験を負わせることも無く。それがテレビ時代における放射能怪獣、すなわちパゴスでありガボラであるのだ。
核の撤廃、大いに結構。放射能の脅威に曝されない世の中こそ、手放しで熱烈歓迎である。危惧すべきは「被曝する」というドラマ性の欠如、それに繋がる“核の恐怖”の形骸化・風化だ。「極めて危険」という理由だけで、放射能を怪獣に要素付けしてしまう短絡さには、何やら“ポストモダン的な欲求の昇華”めいたものが潜んでいるように思えてならない。怪獣=危険なもの。じゃあ取り敢えず放射能を喰わせて、派手に放射能を吐かせてみれば?的な...。
動物的消費行動の結果、他者無しに充足してしまうような社会の顕現。七面倒臭い物語の“踏まえ”をスルー、最短コースによる結果への到達。テレビ時代の到来とともに、そのような消費形態におけるさもしさが萌芽していたことは、決して偶然ではないだろう。自動的に流される映像情報を、受動的にただ目で追うだけの消費行動に、もはや咀嚼・顧慮といった人間的営為は風前の灯火だ。そんなポストモダン的消費の風潮にあって、“核の恐怖”を背負わされた怪獣たちは、痛ましい具体的なあれやこれやを省かれた挙句、単なる表徴に堕してしまうのか。そうならないことを願うばかりである。
“ガボラ”という名称は、「いかにも」怪獣の名前らしい。濁音の多用と「ラ」の結びは、怪獣名付けの王道と言えよう。これが本邦怪獣の創始・“ゴジラ”(『ゴジラ』1954年)の影響であることは、言うまでもない。殊に“ゴジラ”の「ゴ」のようなガ行の濁音は、力強さ・ワイルドさを伴った悪漢っぽさを喚起させ、そして「ラ」の結びこそは「その主が異者である」という隔絶感を象徴的に示している。
それでは「ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ」のいずれかの濁音で始まり、3音韻の階和美を踏み、勿論2音韻目も濁音、尚且つ「ラ」で終わるという四大王道名称条件を具えたウルトラ怪獣を、そしてその祖・ゴジラに敬意を表し東宝怪獣も併わせて挙げ連ねてみよう。
ガボラが出現した「宇浪里町」、そしてウラン貯蔵庫が在る「安部町」。書籍によっては、ともに「宇浪利町」と「安倍町」の表記も持つ。無論架空の町名だが、果たしてどちらが正しいのやら?
ところで「宇浪里(うなり)町」などという、珍名の由来は何であろうか?ガボラは出現前に、工事現場一帯の地面を度々震動させ作業を手間取らせた。その震動音が恰も唸り声のように聞こえ、転じて“宇浪里(うなり)”の当て字となったのではないだろうか。
「ひと粒で二度おいしい」 これは昭和34年、江崎グリコ社製のキャラメル商品「アーモンド・グリコ」に附されたキャッチ・コピーである。食指催させるこの秀逸な謳い文句は、その後何年にも亘りTVCMなどで喧伝されたと記憶。よって一般人への浸透率も高く、「一挙両得」や「一石二鳥」などを言うべき日常場面のそこここで、この台詞は持て囃された。
が、それも遠い昭和の昔日。2008年。嫌がらせ目的で同じ職場の女性職員に猥褻なメールを匿名で再三送ったとし、ストーカー規制法に抵触、何と現職の宇都宮地裁判事(55歳)が逮捕され罪に問われるという事件が起こった。何でも姿の見えなかった犯人像を割り出すきっかけとなったのは、メールの中に記されていた「ひと粒で二度おいしい」という、ある程度歳を喰ったものでなければ使いこなせない、絶えて久しい文言だったとか。嗚呼、哀れ。
そもそもパゴスが登場する『ウルトラQ』第18話「虹の卵」自体も、当初は第1話「ゴメスを倒せ!」に登場したゴメスが再登板する予定であった。ゴメスの予定がパゴス、そしてパゴスの予定がガボラと。この3者に不思議な縁を感じてならない。いずれも中島春雄が演じた怪獣だし、縫いぐるみも東宝出身であることが共通しているし。
竹書房刊行の『ウルトラマン・クロニクル』(1997年)には、1968年当時に円谷プロが製作した(再放送のための)番組販売用パンフレットの復刻版が特典附録として付いた。これの第9回「電光石火作戦」のページを見ると、“ガボラ”と“パゴス”の名が混在して記載されている。パゴス再登場が懸案されていた、恐らくはその名残りであろう。
我ガ領國ヲ侵犯シ平和ヲ脅カスモノ、是等人民ノ敵ヲ討チテシ止マン。戦時下非常時的堅苦シサ帯シ言辞ニ依リテ名状サレタル題目ニ、科学特捜隊ヱ向ケテ発令セラレシ任務ノ重キヲ知レ!
『ウルトラマン』では、ひとつの作品がフィルム化に到るまで、それぞれの脚本・シナリオ・台本などについて、幾度かの改稿が重ねられている。それは全39話に対して、台本の形となったものが47作品92種というのだから、その多さには驚きだ。各作品における改訂多稿・重推敲が容易に想像できよう。
そして完成台本に到るまでは、そのタイトルも千変万化、様々なものが勘案された。実際に放映されたタイトルを知っているからこそだが、そこには刺激的な名タイトルの数々が群雄割拠している。「もしこのタイトルだったら...」などと、埋もれてしまった逸品への痛惜を禁じ得ない。では陽の目を見ることがなかった、最終決定前の異タイトル一覧を以下に。
さながら顔面開花、放射能撒き散らす災禍の道行き
実は地球環境に優しい?地底怪獣バラゴン5代目
気息奄々のガボラ、
衰弱の裂け目からまだ漏れる息のよに...
仮面、そして変身!
策士・成田が仕掛ける権謀術計に狂気!
何か得した気分
ガボラの「赤」は、自然界の中で脈打つ
心惹かれる赤いチャーム・ポイント、その血脈
代打怪獣だが、決して“間に合わせ”ではない
何たる昭和怪獣激烈史!ぼくらの黄金二週間!
組んず解れつ、中島バラゴンの壮絶なるフィナーレ
これぞ「悪魔の住む花」?
武そして敏男、少年は怪獣に遭遇す
今井和夫と池田忠夫、大人も怪獣に遭遇
春風駘蕩、怪獣と子どもが安閑を織り成す
飽くまで人間目線、それが『ウルトラマン』
縦し縦い太平楽であっても、題目には戦陣の幟が翻る
放射能を喰って吐く、怪獣の何たるか
文字通り、ゴジラとガボラは「喰い違う」
生まれついての放射能体質、それが示唆するものは..