「宇宙の平和を乱す悪魔のような怪獣」と呼ばれる犯罪者怪獣。M35星出身。ウルトラマンによって「宇宙の墓場」へ護送される途中に脱走、青い発光球となって光速移動し地球まで逃亡して来た。埼玉県は竜ヶ森湖に身を潜める。湖底で長旅の疲れを癒していたが、科特隊による水中と空からの二面攻撃作戦「ウルトラ作戦第一号」によって燻し出され、ハヤタの乗った特殊潜航艇を咥えたまま上陸した。前肢が短いので接近戦は苦手で、口から青い熱光線を吐いてウルトラマンに応戦する。再び青い球体になって逃亡しようとしたところを、ウルトラマンのスペシウム光線で倒された。
「宇宙の凶悪な犯罪者」はレッテルどおりの悪相だ。頭部から背面を埋め尽くす夥しいトゲトゲ、全身を覆うウロコ、牙、爪、尻尾、そして武器は口から吐く熱光線と、記念すべき『ウルトラマン』怪獣第1号は、怪獣の条件をきちんと備えた怪獣然とした怪獣である。
脚本を手がけた金城哲夫は、ベムラーを「宇宙の竜」のイメージとして描いた。その宇宙竜・ベムラーは、地球の竜ヶ森湖に潜む。この「湖と宇宙竜」という題材は、金城が好んでよく使った。『ウルトラセブン』第3話「湖のひみつ」における「吾妻湖とエレキング」も、金城脚本だ。他にも、『ウルトラQ』の企画段階でNGとなった「怪竜ウラー」は、『ウルトラマン』第10話「謎の恐竜基地」となり、ネス湖のネッシーさながら北山湖に潜む怪獣ジラースを描いている。更に、「湖」こそ出てこないが、『ウルトラセブン』第11話「魔の山へ飛べ」ではまさに“宇宙竜”の名に相応しいナースが登場した。如何に金城がその題材を愛したかが、窺い知れよう。
さて伝説の怪物「竜」が、口から吐くのは火炎である。そもそも「怪獣」というものは、恐竜同様にこの「竜」の延長上にあった。恐竜の方は化石や科学によって「実在した」ものとなり、したがって口から火を吐いたりなんかしない。しかし片や空想上に生きる「怪獣」の方は、竜さながらに口から火を吐くことも自在だ。
本邦における「怪獣」の祖であるゴジラ(1954年)は口から火を吐くわけではないが、放射能を吐いて辺り一面を火の海にした。「火と怪獣」は「火と竜」とイコールであり、イメージとして確固たるものがある。映像作品としては50余年前のゴジラがそれを証明して見せたのだが、それより遥か以前から我々日本人に培われたコモンセンスとも言えよう。
ベムラーもこのイメージに忠実であり、口から熱線を吐いて辺りを焼き払う。1975年に講談社インターナショナルから発刊された『ワールドスタンプブック 怪獣の世界』でも、このベムラーは「高熱火炎が武器だ」と題された項目に、火炎ないし熱線を武器とする怪獣の代表として取り上げられている。まさに金城哲夫が意図したとおりの、宇宙「竜」のイメージだ。
怪獣はその存在同様に武器も自由で、あるものは電撃能力を有したり、またあるものは怪力無双を誇り、そして得体の知れぬ光線を放射するものまでいる。だが所詮それらは亜流で、火力攻撃は怪獣の基本だ。全ての怪獣は「火」に還ると言っても過言ではない。ゼットン(『ウルトラマン』第39話)やパンドン(『ウルトラセブン』第48・49話)、ブラックキング(『帰ってきたウルトラマン』第37・38話)、バードン(『ウルトラマンタロウ』第17・18・19話)など、ざっと昭和を代表する強力怪獣を見渡せば、ウルトラ兄弟の面々を苦しめた決定打が、火炎ないし熱線による火力攻撃であることが分かるだろう。曰く、怪獣は「火を吐く」ものなのだ。
ところで、口まわりの特徴的なシワが際立つウルトラマン・Aタイプのマスクだが、当初は演技者の口の動きに連動して開閉する予定であった。NGとなったが、ウルトラマンが口から火を吐いたり、また“シルバーヨード”という必殺の液体を口から吐くという描写があったのだ。もしこの案が採択されていたら、熱線を吐く宇宙竜ベムラーとの戦いはどう描かれたであろうか。お互いの必殺技が口から繰り出される様は、まさに怪獣同士のそれである。銀色の先鋭的なヒーローが、怪獣の口からの攻撃に対して同じく口から必殺技で応じるという絵図は、ある意味画期的だったのかもしれない。
ベムラーのデザインを手がけたのは成田亨。そして高山良策造形による着ぐるみだ。『ウルトラQ』の頃より、空想上の「有り得ない」怪獣の姿を「有り得る」生物にしてきたふたりのコラボレーションは、当然『ウルトラマン』でも健在である。金城が仕掛けた「宇宙竜」を、さて成田・高山コンビはどのように創り上げたであろうか。
「凶相」と言うのだろうか、ベムラーの凶悪な面構えは、魚の鯒(こち)か何かを髣髴とさせる。それは凶悪な性質の追従としてではなく、まさに「生きる」ための必然の結果を呈しているのだ。微妙で繊細な自然の造形物、そのかんばせである。ベムラーという種が綿々と存続してきた「永い時間」すら、その顔には刻印されているのだ。
「既存の生物の安易な巨大化はやらない」とした前衛美術家・成田亨は、モーチフとして特定の生物を定めたとしても、シュルレアリスムの基本原理に則った“オートマティスム”によって、無意識に根ざす想像力を解放する。そこで成田自身が直面する「唐突さ」はすなわち、我々がベムラーに見る「それが本当に何処かに存在する」可能性なのだ。その成田と、そして成田の創造した生命に実際に息を吹き込んだ高山造形だからこそ成し得る超越技であり、これはベムラーに限らず、ふたりのコラボレーションによって生み出された「有り得る」生命全てについて言えることである。
だがそれら「有り得る」生命の姿は、『ウルトラマン』というややもすればファンタジー色が強い作品の中では、ストーリーを凌駕してしまう場合があるのだ。
前述してきたとおり、ベムラーはあまりにも生物としてのリアリティに富む。それはまるで、自然界に棲まう野生動物のようだ。また凶悪さの中にも、「どこか憎めない」と評されるウルトラ怪獣特有の愛嬌さが顕現している。開きっ放しの口やひょろっとした佇まいなどはどこかすっとぽげた印象で、そこに知的生物としての姿は無い。「凶悪な犯罪者」と言うよりは、生きるための結果としての「罪意識の無い」獰猛な野生動物だ。
それは法の外の住人の姿である。したがってウルトラマンがこのベムラーを捕らえて宇宙の刑場へ護送すること自体、猛獣に手錠をかけて刑務所へ送り込むような愚行であり、『ウルトラマン』という作品性だからこそぎりぎり許せた物語なのであろう。
ストーリーと演出に密接に絡み合うよう、デザイン・造形されたウルトラ怪獣。だが上述のように、時として「有り得る」生命の姿が独走してしまうところに、また成田・高山コンビネーションの怖さがあるのだ。
さてベムラーでひと際目を惹くのは、肉食恐竜の如く退化したような前肢だ。著しく短い。初期ウルトラ怪獣にあって、このように爬虫類型の体型を著しく呈した例は稀有だ。
同じ成田亨がデザインを手がけた怪獣で、このように「爬虫類」があからさまな怪獣はわずかに『ウルトラQ』のピーター(第26話)を挙げるばかりである。このほかに『ウルトラマン』のゲスラ(第6話)やジラース(第10話)がいるが、ゲスラは前述のピーターの改造であり、またジラースはお馴染みゴジラの改造なのでこの例に適当ではない。よってベムラーとピーターだけが顕著な「爬虫類」怪獣であり、成田怪獣の中でも異例なのだ。
それにしてもウルトラ怪獣のデザイン原則として先ず「独創性」を謳った成田が、何故このように一瞥して肉食恐竜を想起させてしまう決定的な前肢を、ベムラーに配したのだろうか?「既存生物の安易な巨大化」を避け、「怪獣は恐竜ではない」とした成田が...。
ひとつ考えられるのは、当初着ぐるみ演技として勘案されていた、頭部2列の角が左右に開閉するギミックだ。演技者が着ぐるみ内で両手を上に挙げた状態になり、その手先を頭部の角に入れて固定、操演者自身の手首を内外に動かすことによって前方から見たベムラーの顔がバコバコ動き、その表情に変化をもたらすという演出であった。だから退化したような短い前肢は、着ぐるみ演技者が腕部に腕を入れる必要性が無いという前提で、生み出されたデザイン・アイデアだとも考えられる。逆に、先に恐竜みたいな短い前肢という発想ありきで、じゃあ着ぐるみ演技者の自由になった両手を何かに活かせないかと、生み出された考案なのだろうか?果たして。
いずれにせよ金城哲夫が要望した宇宙「竜」のイメージを大事にし、そして尊重した結果であることは疑う余地は無いのだが。
ベムラーの着ぐるみはレッドキングと同時進行で造られ、高山良策によって「全身型抜き法」で制作された。この制作法は、時間・予算ともに余裕のあった東宝怪獣が、頭部ベースのみ粘土原型をおこし、そのあと「直付け」でテクスチャーを付けた制法とは対照的だ。東宝怪獣は、更にオガクズをラテックスに混ぜた「オガラテ」を表面にはたいて、絶妙な質感を生み出していたが、高山は粘土原型彫刻時にシワなどの表層を、ヘラでモールディングしてのけたのである。尚、ベムラーの着ぐるみはその後、第11話登場のギャンゴに流用された。
ベムラーの着ぐるみ役者は荒垣輝雄だ。『ウルトラマン』で演じた荒垣の怪獣を挙げてみると、このベムラーを含んで16体にも及ぶ。これは2番目に多い鈴木邦夫が演じた怪獣10体をおさえて、断トツの多さだ。
第1話登場のベムラーを演じた荒垣は、最終話登場のゼットンも演じている。そのほかレッドキングやジャミラなど『ウルトラマン』を象徴するような怪獣を演じ、またブルトンのように異質な形態を持つものや、ドドンゴとペスターのように2人1組で中に入るもの、二足歩行型のものや四つ足タイプのものまで、その幅広さが荒垣怪獣の特徴だ。『ウルトラマン』の怪獣の動きの中に「荒垣輝雄」を見ると言っても、それは決して過言ではないだろう。
『ウルトラマン』第1号怪獣であるベムラーは、ウルトラシリーズの中で「原点回帰」の意味合いを持つ。
「初代」ウルトラマン誕生秘話を描いた名作・『ウルトラマンティガ』第49話「ウルトラの星」(1997年)には、ヤナカーギという怪獣が登場する。その姿はベムラーとは著しく異なるものの、鼻とクチビルのデザインや背面のトゲトゲなど随所にベムラーを意識したデザインが施されており、またその舞台が竜ヶ森湖となっているところから、ヤナカーギはベムラーに着想した怪獣であると言えよう。
また2004年、“ウルトラマン”を新しく再考する意味で、「ULTRA N PROJECT」が円谷プロによって提唱された。これの一環として劇場用作品『ULTRAMAN』(2004年12月)が公開されたが、それに登場するスペースビースト・ザ・ワンは爬虫類体型が著しく、この作品の意味合いから鑑みても、これがベムラーにインスパイアしているのは明らかであると考えられる。
『ウルトラマン』の記念すべき第1号怪獣であるベムラーはしかし、バルタン星人のように絶対的な人気がある訳ではない。だが上記のように、「もう一度原点を見直す」という際に何らかの形で持ち出されることが、「第1号」として象徴的である。
怪獣の出身は多様だ。地底から、深海から、山岳地帯から、密林の奥底から、澱んだ湖沼から、砂塵吹き荒れる砂漠から、前人未到の極地から、そしてときには都会のど真ん中から、何処からでも怪獣はやって来る。人智及ばぬ摩訶不思議な怪獣たち。多彩を極める出来場所の中で最も極めつけなのは、何と言ってもやはり人智及ばぬ宇宙であろう。宇宙からやって来た怪獣ベムラー。彼らのように地球外の他天体を出自とするものを、総じて“宇宙怪獣”と称する。
本邦分野の作品において、“宇宙怪獣”なるものが初めて明確な獣性を具えて顕現したのは、東宝の『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)で衝撃的デヴューを飾ったキングギドラであろう。無敵のゴジラを圧倒する三つ首の黄金竜。そのインパクトは絶大で、以降の後進に多大な影響を与えることとなる。『ウルトラQ』や『ウルトラマン』が放映された1966年でも、まだこの“宇宙怪獣”というブランドは健在であった。たとえ同じ下等動物の外貌を持とうとも、生活能力や攻撃機能などの面においては、地球出身怪獣のそれを遥かに凌ぐという、ある種神性を帯びた描かれ方が宇宙怪獣の定石となったのである。
人間の常識の枠外に息衝く怪獣たち。分けても宇宙怪獣は、その非常識の度合いが頭抜けている。謎と不思議に満ち満ちた宇宙に棲息しているのだから、これはもうどんなに常軌を逸したりしても、一向に構わないという寸法・塩梅だ。いや、是非ともそうあるべきである。宇宙には「無限」とも言える可能性があるのだから。常識を遥かに逸脱・凌駕、非凡を更に超越してこそ、宇宙怪獣の面目が躍如するというものだ。
したがって宇宙出身の怪獣には、「型破りな容貌」と「桁外れな強さ」が期待された。『ウルトラセブン』第3話登場のエレキングは、その特異な外貌を以ってして、宇宙怪獣に課せられた卦体への希求にいみじくも応えている。目のあるべき箇所からは回転するアンテナ状の角が生え、閉ざされた口腔や断裁されたような指先など、まさに“宇宙怪獣”でなければ有り得ない奇態だ。また『帰ってきたウルトラマン』第18話のベムスターは、フクロウなどの猛禽類を髣髴とさせるが、腹部の孔からあらゆるエネルギーを吸収してしまうという特殊能力に、やはり“宇宙怪獣”ならではの突飛さが窺える。エレキングとベムスター。ともに「容貌」と「強さ」において及第を果たした、「宇宙怪獣の優等生」と言えよう。
だがしかし“宇宙怪獣”の最たる存在は、何と言ってもゼットン(『ウルトラマン』第39話)だ。ゼットンは“宇宙恐竜”を名乗りながらも、その抽象性を前面に押し出した姿には、もはや恐竜の影も形も無い。顔面中央部と胸部一対の発光部位や蛇腹構造の四肢、寸断されたようなニュアンスを持つ眼部に目らしきものは無く、穿たれた孔はまるで虚空のように虚ろ、黒と黄あるいは黒と白のコントラストも鮮烈な、何とも形容のし難い強烈なインパクトを見るものの脳裏に焼き付ける先鋭的威風。「抽象」が放つ異彩は圧巻だ。そしてウルトラマンさえ事も無げに倒した強靭さは、ここで殊更言うまでも無い。宇宙恐竜ゼットンこそは、容貌・強さともに我々が“宇宙怪獣”について要求するものに見事応えた、いやある意味完璧に裏切ったと言える、まさに「宇宙怪獣の王」の称号が相応しい至高の存在なのである。
さてそれでは、ベムラーはどうか?エレキングやベムスター、そしてゼットンなどに比べれば、爬虫類体型の姿に強さはそこそこと、“宇宙怪獣”っぷりは極めて控え目だ。むしろ“地球怪獣”と言ってもいいくらいに常道である。宇宙時代のニューヒーロー・『ウルトラマン』の初っ端を飾る怪獣に、宇宙怪獣を据えるということ。そこには、前作『ウルトラQ』との差別化を図る狙いが当然あったであろう。ところが折角の宇宙怪獣の容貌が、アレである。肉食恐竜もしくは爬虫類の如きシルエット。成田亨は、果たして何を意図としてベムラーに斯様なデザインを施したのか?なるほど、脚本を書いた金城哲夫が企図する“宇宙竜”の「竜」という部分については合点もいこう。だが肝腎要の「宇宙」については...。
思えば『ウルトラQ』のナメゴン(第3話)やガラモン(第13・16話)から始まったシリーズの宇宙怪獣。前衛美術家である成田にとって、その本領を発揮するのに「宇宙生物」という画題は恰好のテーマであった筈だ。(ナメゴンは成田のデザインではない) しかしながら成田は、こう述懐している。「現存の動物をただ巨大化させないという私のデザイン上の鉄則がありましたが、一方では急がないでいこうという気がありました」と。この言を裏付けているのが、『ウルトラQ』第21話に登場する“宇宙エイ”・ボスタングだ。ボスタングは文字通り「宇宙のエイ」なのだが、地球上に棲息するエイと何ら変わるところはない。
このほかにも“宇宙怪獣”ではないにせよ、ラゴン(第20話)やピーター(第26話)などは、それぞれ全く以って半魚人とカメレオンを体現するものであり、見た目には“怪獣っぷり”が稀薄だ。(尤も半魚人自体は空想の産物なのだが) 更にガラモンについては、“宇宙怪獣”としての奇天烈さは申し分無いが、モチーフとした鯒(こち)やオコゼからの逸脱が左程見られない。シュルレアリスムの一手法である「抽象」よりは、むしろ「具象」の方が際立っていると言えよう。
そんな緩りとした成田がゆく道程。ベムラーのデザインを手がけた後も、彼の“宇宙怪獣”はラジカルな飛躍を怱々見せることはない。『ウルトラマン』において宇宙怪獣(宇宙「人」は除く)に該当するものは、ベムラーをはじめ、ギャンゴ(第11話)、ガヴァドン(第15話)、ブルトン(第17話)、ドラコ(第25話)、スカイドン(第34話)、シーボーズ(第35話)、キーラとサイゴ(第38話)、ゼットン(第39話)となる。(尚ギャンゴとガヴァドンAについては、その姿が人間の発想から形作られたという設定上、本話題からは除外するのが適当であろう)
特筆すべきはブルトン。鉱物を好んでモチーフとした成田ならではの、「生物+鉱物」のハイブリットが見事に焼結している。その抽象性は、まさに宇宙時代における未知の生物の姿だ。このブルトンでは、確かに急進的転換が見られる。しかし以降の宇宙怪獣が、ブルトンの如き奇妙奇天烈なアブストラクトを纏ったかと言えば、そんなことはない。後続のドラコやスカイドンなどを見れば判ると思うが、モチーフとした生物の具象性(ドラコはバッタやカマキリ、スカイドンはアルマジロなど)がまだまだ顕著だ。ブルトンは飽くまでも試運転的な実践。その成功に味を占め軽々に抽象一筋にひた走らない着実さこそが、成田亨というシュルレアリストの遣り口なのかもしれない。
決して「急がない」。ベムラーは、そんな成田が繰り出す足運びの結果、歩幅の産物と捉えられよう。ともあれ、ガラモンやベムラー、ドラコなどの緩慢だが堅実地道な足どりの一歩一歩が、やがてゼットンやエレキングという賜物への到達を実現ならしめるのである。そして成田がウルトラを退いた後のベムスター(『帰ってきたウルトラマン』第18話)、ブラックキング(『帰ってきたウルトラマン』第37・38話)、アストロモンス(『ウルトラマンタロウ』第1話)など豪奢な宇宙怪獣群、或いは『ウルトラマンA』における絢爛な超獣群など。これらはもちろん成田が踏み固めた地盤が有ったればこそ、肥沃な土壌を苗床として芽吹き、系譜を築き上げたのである。
世界に比類無き華々しい“宇宙怪獣文化”を発信する日本の特撮界。まだまだ豊潤な鉱脈を秘めるその大地に、一人のシュルレアリストが刻印した靴跡を見よ。
さて、記念すべき『ウルトラマン』の第一回目、すなわちウルトラマン誕生の物語だ。宇宙からやって来た生命体が、他天体である地球の平和を守る。しかも無償で。かつて無かったこのヒーロー像は、沖縄出身の脚本家・金城哲夫によって生み出された。
自身の過失によってひとりの地球人を死なせてしまったにせよ、乗ってきた宇宙船が爆発して母星に還れなくなってしまったにせよ、何の義理も無い地球に対して献身的に働くウルトラマン。不可解な動機。その姿は、母星であろうと他人の星であろうと分け隔てなく、国家や民族を超越した「コスモポリタニズム」を体現しているかのようだ。この博愛主義的なヒーロー誕生には、少なからず金城自身の出自が関係しているのであろう。
太平洋戦争末期、沖縄での生々しい戦争体験と共に育った金城は、一方では強い「琉球ナショナリズム」を持ち、他方で日本本土への憧れを持つという、「矛盾」を抱え込んでいたに相違ない。歴史的に見れば日本は琉球を侵略・植民地化してきたのだし、大戦では中央(東京)を守るために捨て駒にしたのだから、その内地(東京)に対して「怨嗟の念」とも言うべきナショナリズムがあった筈だ。しかし「沖縄と運命をともにするのが夢」と語っていた一方で、子ども時代は誰よりも早く標準語を覚え、「東京の街を見たい」一心で中学卒業後即上京するという態度は、矛盾以外の何物でもない。
この矛盾を埋めるべく金城は、国際主義的な理想を持つようになったと考えられる。「沖縄と本土を結ぶ架け橋」。それを自身の使命と考えたのである。本来はナショナリズムを否定する国際主義も、「沖縄と本土を結ぶ架け橋」という命題が「アメリカからの独立」という意味合いを含んでいるということによって、「琉球ナショナリズム」を充足させたのだ。
しかし国際主義を掲げている以上、沖縄の全面的な自立、すなわち積極的なナショナリズムは主張できない。そこで金城は国際主義とナショナリズムの両立のために、博愛主義を持ち込んだのである。善意と寛大さに満ち溢れた「コスモポリタニズム」世界は、強い大国が弱い小国の立場を理解し庇護する夢のような状態だ。これによって小国は、積極的にナショナリズムを主張せずに自立・存立しうるのである。博愛の精神を持った強い国、それこそがウルトラマンなのだ。
以上のように『ウルトラマン』の世界は、博愛主義的な善意を持った強い宇宙人が、弱い地球を守ってくれるという、日本と沖縄の関係についての金城自身の切実な願望の反映・投影なのである。日本がウルトラマンのように鷹揚な態度で沖縄を庇護してくれれば、沖縄は積極的なナショナリズムを主張することなく自立できるのだ。沖縄にその出自を持つ金城であったればこそ、ウルトラマンは誕生し得たのである。
先にちょっと触れたが、“ウルトラマン”というヒーローを生み出すにあたって相当な苦労をしていた金城自身の物語を、劇中における竜ヶ森でのウルトラマンとの邂逅に絡めた傑作・『ウルトラマンティガ』第49話「ウルトラの星」(1997年 脚本:上原正三)は、ウルトラファン必見である。ファンタジーとノスタルジーを履き違えた傾向にある平成ウルトラシリーズにあって本作は、金城が、ひいては円谷英二が“ウルトラマン”に託した想いのほどが見事に描き出されているのだ。
『ウルトラマン』の制作現場を描いた作品は、それまでにもあった。だが現代の『ウルトラマン』の劇中で「ウルトラマン誕生の物語」が語られることは実に画期的であり、そういった意味でこの「ウルトラの星」は、「タイムスリップ」などという陳腐極まりない手法を用いていても、昭和当時を懐古するだけのその手の円谷作品の中においては、突出して優れたファンタジーに仕上がっていると言えるのだ。「ウルトラ兄弟」という概念が無かった『ウルトラマンティガ』という作品性と、何よりも金城のそばで共に『ウルトラマン』を作り上げていった上原正三だからこそ、為し得た作品なのである。
とにかく一見を。夜の竜ヶ森。怪獣ヤナカーギ(ベムラーをもとにデザインされた)に苦戦するティガの前に、颯爽と登場するウルトラマン。新旧ウルトラマンが協力してヤナカーギを倒すシーンは、他の「ウルトラ兄弟もの」とは比べものにならないほどの異彩を放つ。そしてラストのエンディング映像まで、胸の鼓動は鳴りっ放しである!
ウルトラマンを演じたのは古谷敏だが、会話時の声については3人があてている。近藤久(第1話・第39話)、石坂浩二(第15話)、浦野光(第33話)だ。
このうち石坂と浦野については、『ウルトラマン』のナレーターとしてもお馴染みである。浦野については、第33話「禁じられた言葉」における対メフィラス星人戦での「メフィラス星人、さっさとお前の星に還れ!」というセリフが印象深く、また第39話「さらばウルトラマン」でのゾフィーの声としても親しみ深い。
異例なのは近藤久で、近藤はそもそも声優ではなく整音スタッフであった。もともと中曽根雅夫という声優が第1話でウルトラマンの声をあてる予定だったが、中曽根はアフレコ収録時間に大幅に遅れ、彼の到着を待つ時間的余裕が無かったために、監督の円谷一が自ら買って出たが巧くゆかず、それで結局は録音技師の近藤が急遽あてることになったという経緯がある。声優や役者が本業ではないとは言え、近藤の第1話と最終話における宇宙人をイメージした平坦な喋り方は絶妙だ。
さてアフレコ収録時間に遅れた中曽根雅夫だが、中曽根は戦闘時におけるウルトラマンの有名な「シュワッチ!」の声を効果音としてあてることになる。よく声が響き渡るようにと、ピアノの中に顔を突っ込んでの録音であったそうだ。
その後の中曽根の活躍としては、『タイガーマスク』(1969年)におけるアントニオ猪木役や「虎の穴」幹部の声、そして悪役レスラーの数々、『アパッチ野球軍』(1971年)で網走の父役、『デビルマン』(1972年)での魔将軍ザンニン役(ノンクレジット)などが挙げられよう。だが声優として芽が出なかった中曽根は、家族とも離れ不遇なままに1993年に孤独死を遂げている。
しかしながら、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)や『ウルトラマンA』(1972年)であてた新マンとエースの気合の入った声とともに、今日CMその他で聴かれる「シュワッチ!」こそは全て中曽根のものであり、その声は今現在でもなお生き生きと息づいているのだ。
ベムラーの鳴き声は、初代ゴジラ(1954年)の素材を逆回転や早回しによって加工し編集したものである。ベムラーのあの特徴的な弦楽器のような響きは、ゴジラに由来するのだ。
実は『ウルトラマン』に登場する怪獣の中には、特に「宇宙から来た」という描写が無くても、出身地が不明なものについては“宇宙怪獣”の設定付けが為されている。無論それらは、ドラマで語られることが無かったのだが...。考えてみればベムラーも、竜ヶ森湖を気に入りそこで長旅の疲れを癒している。そのまま居着いてしまえば、その容姿からも充分“地球怪獣”としての資格が有るというものだ。ともあれ。地球上に棲息するものの、正体は宇宙怪獣?その稀有な例を以下に挙げてみよう。
ウルトラシリーズにおける特撮番組制作の現場や、スタッフの奮闘振りを綴ったテレビドラマをいくつか挙げてみよう。
ちなみに「シュワッチ」は、正確には「シュワッキュ」である。録音効果によって、「シュワッチ」とも聞こえるのだ。
記念すべきウルトラマン怪獣第一号、ベムラー
「湖と宇宙竜」。金城哲夫が愛した題材だ
古来より「竜」は火を吐く
「火」がウルトラ兄弟を苦しめるのだ
口から火を吐く前代未聞のヒーロー?
この顔、この荒々しさ!
「凶悪さ」が自然体のベムラー
怪獣を宇宙の刑場へ送り込むというファンタジー
「爬虫類」が著しい成田怪獣はレアだ
ベムラーの前肢は、肉食恐竜さながら
退化したようである
ベムラーの着ぐるみは、その後ギャンゴに改造された
荒垣輝雄はウルトラマン怪獣の「顔」だ
40年近くの時を経て、ベムラーは回帰する
非常識が神格化され、その神性は崇拝され
「型破り」と「桁外れ」に期待も高まるが...
果たしてベムラーの“宇宙怪獣”としての資質は?
シリーズにおける宇宙怪獣の黎明
「急がぬ」歩みはやがて...
ハヤタが、巨人からもらったベータカプセルを使うと...
地球のために「無償」で働くウルトラマン
ウルトラマンの菩薩顔は、
博愛主義に由来するのだろうか?
ウルトラマンには、沖縄人・金城の
切なる願いが 込められている
新旧ウルトラマンそろっての活躍は、胸躍る!
永遠に響くウルトラマンの「声」