磁力怪獣  アントラー ~ 『ウルトラマン』 第7話 「バラージの青い石」

中近東砂漠に巣食う凶事、
禍事為す太古のアントラー

 旧約聖書の創世記において、ノアの箱舟が漂着したと伝承されるアララット山。その麓にある伝説の町“バラージ”周辺の砂漠を根城として太古より棲息し、町の民から畏れられていた怪獣だ。5000年前にバラージを襲ったが、姿がウルトラマンそっくりな“ノアの神”によって倒された。しかしこの度、中近東砂漠の大隕石落下の影響に伴い、永い眠りから目を覚まし活動を再開する。擂り鉢状の巣に潜む別名“ありじごく怪獣”。頭部一対の大顎の間から七色の電磁波光線を放射、上空を飛ぶ航空機を墜落させ人間を獲物として喰らっていた。科特隊の攻撃を受け付けないばかりか、強力な磁力でスーパーガンさえ吸い寄せてしまう。その身体の強靭さは、ウルトラマンのスペシウム光線さえ撥ねつけたほどだ。またクワガタムシのような大顎で相手を挟み込む攻撃や、砂煙による目くらまし戦法、更に砂中を高速移動しウルトラマンを散々翻弄した。唯一の弱点は、バラージ寺院に奉られたノアの神像が手にしている青い石である。そのことをウルトラマンが思念によって寺院の神官チャータムに伝え、彼女から石を託された科特隊のムラマツがこれを投擲、アントラーは爆発に全身を包まれ最期を遂げるのだった。









意匠と造型

 アントラーは、成田亨がデザインを手がけ、そして高山良策が着ぐるみを造形した、いわゆる“成田・高山ゴールデンコンビ”による『ウルトラマン』怪獣の記念すべき第1号だ。ちなみに両氏のコラボレーションによる文字通りウルトラ怪獣の第1号は、『ウルトラQ』のペギラ(第5・14話登場)である。

 クワガタムシとカブトムシを併せたようなアントラーと、トドやアザラシやペンギンなど複数の極洋生物を融合させたようなペギラ。どちらもインパクトのある容姿を持ち、新シリーズ(ペギラの場合は、番組の怪獣路線への変更決定後初めて作られた怪獣という意味合いにおいて、まさに“新シリーズ第1号怪獣”と言えよう)の世界観を紹介する上で、これら「個性的な怪獣」のお披露目は極めて有効的に働いたことであろう。『ウルトラマン』第1話に登場するベムラーの怪獣としての凡庸さと、そして独特のフォルムを持つアントラーとを比べて見れば、その“キャッチーさ”の差異のほどは明々白々歴然だ。ともあれアントラーペギラは、2人の前衛芸術家の「新たなる」意気込みが込められた、入魂の傑作怪獣と言える。


 アントラーは初期のデザイン画において、カブトムシそのものの頭部を有していた。それが幾多の変更を重ねて、最終的にカブトムシの長い方の角は省かれるが頭部の形状はそのまま残り、代わってクワガタムシのようなノコギリ状の大顎を持つに到る。体色も実際にフィルム化された作品に登場するようなものではなく、紺色や黄色などが迷彩模様さながらに絡みあったような意趣を持っていた。さすがに“第1号怪獣”だけあって、その改稿の枚数は他の怪獣のものより多目だ。熟考に熟慮を重ねた試行錯誤のほどからも、成田亨の“新シリーズ”に賭けた決然たる意思が伝わってくるというもの。

 昆虫型怪獣としての意匠を持つアントラーは、クワガタムシとカブトムシを併せたような頭部を持つほか、随所に昆虫としての特徴を兼ね備えている。突き出した目や触角、そして縦に割れた嘴などは、明らかに脊椎動物のものではない。幾多の環節の連なりによって成り立つ四肢ともども、昆虫や節足動物が見せる特徴である。そしてキチン質の外骨格を纏ったような外殻はもちろん甲虫のものであり、その外装を背負ったシルエットに、古代エジプトにおいて護符とされた“スカラベ”の象りを見ることができよう。

 “太陽神ケペリ”の象徴とされ、印章として重んじられた“スカラベ”。神聖視された甲虫を、災厄を振り撒く“禍々しいもの”へと転化させたことが実に象徴的である。砂漠の民を脅かす怪物。だが本懐は、果たしてそうなのか?ウルトラマンと太古の人類との関係性が暗示される物語だけあって、登場する甲虫怪獣については、そのモチーフ採択の意図を軽視することができない。穿ち過ぎかもしれないが、何やらそこに創造主・成田亨の「敢えて」という含みが有るように思えてならないのだが...。ありじごくのような習性を持った怪獣に、わざわざ甲虫の意匠を凝らしたことにも、それで説明がつくのでは?砂漠、神話、そして甲虫。これら三者の邂逅は、決して偶然ではない筈だ。

 話しが反れたが、再びアントラーの形状について立ち戻ろう。次に触れたいのは、体節構造だ。アントラーの頭と体は、境界がくっきりと明瞭に分かれている。もちろん昆虫にあっては、頭・胸・腹の3部に分かれているのが本来の特性だ。アントラーは2部構成ながらしかし、そのパキッとした分かれ具合が如何にも昆虫らしい。通常頭のてっぺんからつま先まで、一体成型されるのが着ぐるみ怪獣の基本とされる。だがアントラーに関しては、頭部・身体部・腕部・腰蓑部・脚部と、更には靴状の足先まで、それぞれバラバラに成形された。そして各パーツを演者が装着することによって、初めてアントラーは一体のものとなる。無論造型に関しては、高山良策の領域なのだが。そもそもデザイン段階におけるこの特異な設計は、全て昆虫が有する体節構造に配慮してのことではなかろうか。

 スチール写真やフィギュアなどを見ても分かるとおり、アントラーが持つシルエットの特徴として前傾姿勢が挙げられる。しかしその前傾の度合いも、デザイン段階においては更に過剰に描かれていた。それはもう中に入った演者が、立てないほどの傾斜だ。「人型に非ず」の形を、強く意識してのことであろう。実際に着ぐるみ製作前の打ち合わせでは、過剰な前傾姿勢の粘土原型が高山によってデザイン画どおりに作られている。そしてフィルム作品に登場したアントラーは果たして前傾姿勢ではあったが、もちろんそれは演者が自力で立っていられる許容範囲内だ。自立困難な着ぐるみ怪獣など、実現されようにない。併せてデザインの初期段階において存在していた中胸部の肢一対が、決定稿では省かれた形となっている。言わずもがな、人間には四肢しかないからだ。浮いた分の2本の扱いが厄介となろう。更には決定稿でも存在していた尻尾が、造型段階ではバッサリ無きものとされた。最終的な変更はどうであれ、過剰な傾斜体型や6本肢、また尻尾など、努めて「人のかたち」を打ち消そうとした試みに、成田の生命創造に対する飽くなき開拓精神を感じ入るものである。


 さて以上が、甲虫怪獣への刺激的試みのあらましだ。クワガタムシやカブトムシなど、甲虫に対する子どもたちの執心振りは、時代を経ても変わらない。当時にあっては、人気者・バルタン星人のブルマァク人形ともども、アントラーの人形も多くの子どもたちに愛された。新世紀を迎えては『甲虫王者ムシキング』(2003年~)の大々的ヒットを以って、子どもの甲虫好きの端的な顕われと見ることができよう。アントラーは言わばそんな子どもたちの心をくすぐる存在であり、且つ愛されて然るべき怪獣なのだ。

 だが成田は、実はアントラー以外にモチーフとして甲虫に手を出していない。想像力の飛翔を促すような甲虫の魅力的フォルムからすれば、このことは意外なことでありまた残念に思えてならない。「中に人が入る」ことを前提とした着ぐるみ怪獣という制約を鑑みれば、甲虫型怪獣はある程度断念せざるを得なかったのであろうか?事実成田は、着ぐるみ怪獣の縛りから解放された次作『ウルトラセブン』の第1回目登場モンスターとして、待ってました!と言わんばかりにクール星人なる意欲的な異形を生み出している。クール星人は着ぐるみスタイルではなく、操演モデルとして製作された。これによって、虫怪獣の面目とも言うべき「多肢」を実現している。(もっともクール星人自体は、甲虫怪獣ではなく、シラミやダニなどに着想しているのだが)

 いずれにせよ、成田が手がけた甲虫怪獣はアントラーだけだ。その範囲を「虫」に拡げれば、もちろんそれ相応にいくつかの「虫怪獣」は挙げられる。『ウルトラマン』怪獣について言えばセミ顔のバルタン星人(第2話)やバッタの羽を持つドラコ(第25話)がそうだし、『ウルトラセブン』怪獣では先に挙げたクール星人(第1話)やトンボ顔のピット星人(第3話)、またコオロギに着想したベル星人(第18話)などが“成田産”の虫怪獣だ。しかし前記『甲虫王者ムシキング』の名が示すとおり、虫の醍醐味はやはり「甲虫」にあるのではなかろうか。

 たとえばアントラーと同じクワガタムシの大顎を持った怪獣として、『帰ってきたウルトラマン』に登場したノコギリン(第26話)を挙げてみよう。アントラーと比べれば、頓狂な顔つきとフォルムが顕著だ。また昆虫としての硬質感に乏しく、したがって緊張感を大いに欠いた造型となっている。だがこのノコギリンは『帰ってきたウルトラマン』怪獣において、タッコングやグドン、ツインテール、ベムスターなどの有名どころはさておき、そこそこ人気があるのも事実だ。これは全て、ノコギリンがただ「クワガタムシの容貌を持っている」という一点だけに起因してると言えよう。

 『ウルトラQ』の頃より、数多くの傑作怪獣を生み出してきた成田亨。それは40年以上を経た現在でも、決して色褪せることがない。その成田がもしアントラー以外の甲虫怪獣を生み出していたら...果たしてどんな魅力的な姿であったことか?そう思うと、成田産の甲虫怪獣の稀少さには、少なからず可惜を覚えるものである。


 空想上の産物だが、「さもそれが何処かに生存している」ような眩惑感。そして畏怖。これを喚起させるのが、シュルレアリスト・成田亨の怖ろしさだ。

 既に何度も述べたようにアントラーは、クワガタムシとカブトムシを併せた姿を持つ。つぶさに見れば、その目はまるでカニなどの甲殻類のようだ。「クワガタムシ+カブトムシ+カニ」の融合。このハイブリットは、例えば『仮面ライダー』におけるガニコウモルをはじめとしたゲルショッカー怪人の「無理矢理な」融合に比べて、極めて自然に為されている。「不自然さ」で人を怖がらせるのは、ある意味簡単だ。だが成田は、自然な融合を以って見るものを畏怖させることが出来る、稀有なクリエイターであると言えよう。

 とは言え成田怪獣の魅力が、全て「自然さ」に収斂する訳ではない。“オートマティスム”なる自動書記法によって、成田が怪獣を生み出すプロセスにおいて遭遇する「意外性」や「驚き」、「唐突さ」とそして「恐怖」。そういった鮮烈な実体験を、成田はそのまま怪獣に投射しているのだ。我々はアントラーや成田怪獣を目にするとき、成田自身の体験を追体験として受容するのである。それが、「本当に存在するのでは?」という畏怖の正体なのだ。

 テレビ画面を通して伝わる「生物」としてのアントラーの生々しい息づかいは、無論造型を手がけた高山の功績も大きい。だが成田の手によるデザイン段階において、既にその心臓の鼓動は鳴り血流が脈打っているのである。


 では意匠の次に、造型そのものについて触れてみよう。いまひとりのシュルレアリスト、高山良策の仕事である。

 高山がアントラーを造形した工程の写真記録は、ほかの怪獣のものと比べて格段に豊富だ。と言うのも実は、アントラー造型の現場は、『アサヒグラフ』1966年5月27日号のグラビア記事として取材され掲載されているからである。『ウルトラQ』のヒットを受け次作『ウルトラマン』の製作が決定し、もはや社会現象にまで化していた「怪獣」。その誕生の現場に、『アサヒグラフ』が目を付けたという次第だ。尚、取材後その数々の記録写真は、高山に寄贈されている。

 さてそのアントラー誕生の微に入り細を穿った模様を見ると、先にも記したが、先ずアントラーが頭や胴、四肢がそれぞれのパーツに分けられて造形されたことに気付く。つまりアントラーの着ぐるみは、人が各部位を装着することによって初めてアントラーの姿となるのだ。これは「全身型抜き法」を多用していた高山造型にあって、極めて異例であったと言えよう。

 ボディ部の造型にあたっては、金網製の人型に厚手のスポンジを巻きつけ、削り出しによって胴体をモデリングしてゆく方法が採られた。この手法は、体表のテクスチャーなどを直に盛り付けてゆくことから、「直付け」などと呼ばれる。東宝怪獣の着ぐるみ製作では、この方法が多用された。高山が主として採っていた「全身型抜き法」とは、まさに「対極」を成す着ぐるみ製作法だ。

 背面に背負った嵩のある外殻のために、脱着用のファスナーは従来のように背中には付けられず、前面に取り付けられた。これもまた異例なことである。言わずもがな、正面のチャックは目立つからだ。しかしアントラーに関しては、昆虫が呈す節構造を巧みに利用し、この隠蔽に成功している。映像作品を見ていただければ判るが、アントラーのその前面にはチャックのチャの字も見えない。

 アントラーのボディ部に使われた厚手のスポンジ。確かにスポンジという素材は、削り出し易く造型にはもってこいの材質なのかもしれない。だが相手は昆虫怪獣だ。スポンジで昆虫特有の硬質感を表現しようとすれば、必ず無理が生じる。しかし高山はそれをやってのけた。フィルム化された作品に登場したアントラーは、全く以ってキチン質の塊りと言うほかない。これはもちろん、それこそ一節一節にまでこだわった造型であったからこそ成し得た、高山ならではの偉業だ。実在の形は、質感を凌駕するのである。誰しも粘土で作られたそっくりなリンゴやピーマンに、いとも容易く騙されるのだ。

 ボディに続いては、特徴的な頭部に移ろう。クワガタムシとカブトムシのハリブリットを呈する、言わばアントラーの核心部位だ。

 雛型を参考にして先ず粘土原型が作られた箇所は、何よりもアントラー最大のアイデンティティである一対の大顎であった。アントラーは先ず、大顎有りきなのである。命と言っても障り無かろう。全体の扁平さ、「く」の字の角度と湾曲の綾、そして刃先の傾斜の度合い。どこをとっても、ノコギリクワガタの大顎として完璧な形である。凄まじさと、そして静謐感までもが宿っているようだ。その鋭さは、もはや鍛錬された日本刀の象りにも匹敵しよう。イメージが曖昧模糊としたものであったら、決してこうはいかない。先ずは肝腎な部位に入魂し、その出来如何が他の部位と延いては全体像を左右決定する。これは絵画など、芸術創作に携わったことがある者なら、誰しも感じたことがあるのではなかろうか?高山は先ずアントラーの命である大顎を「バチッ」と決めてから、然る後に全体像を創り上げたのだ。

 さてその巨大な大顎を有する大きな頭部の内部には、演者の頭にフィットさせるためのヘルメットが取り付けられている。巨大な頭部が、演技中にぐらつかないための配慮だ。このヘルメット自体も高山の自作だと言うのだから、そのこだわりにはいやはや舌を巻く。テレビ画面中のアントラーが決して安っぽく見えないのは、こういった細やかな気遣いの積み重ねによるのだ。

 大顎と触角、そして嘴は全て可動し、更に目は発光する。これらのギミックは、完成したフィルム作品中において実に効果的な動きを見せた。スプリングやワイヤー、簡素なギアを使っての原始的なメカニズムであったが、これらは全て高山のアイデアによるものだ。ウルトラ怪獣のこういったギミックについては「機電」と呼ばれ、その多くを操演の倉方茂雄が担当した。もちろん余裕があれば高山自身が手がけたこともまま有り、このアントラーなんかはその最たるものだ。このようにして、形として完璧であった大顎は、動きを加えられて遂に息づいたのである。

 仕上げは塗装だ。前にも触れたが、アントラーの体色はデザイン段階において、紺や黄色が絡み合った迷彩模様さながらの意趣を持たされていた。そして高山による彩色も、そのデザイン画に忠実だったのである。だが実際にフィルム化された作品中のアントラーはこれとは異なり、全体的に黒みがかった青色での登場と相成った。背中には青い鮮烈な斑紋が付け加えられ、元々の塗装の名残りは僅かに前面の黄色に留めるばかりだ。おそらくは納品後に、円谷プロによって再塗装されたのであろう。しかしそれはそれで良い。たとえ創造者の色彩意趣が変更されようとも、昆虫怪獣としての肝要な部分は何ら失っていないのだから。ちょっと色を変えられたぐらいで、損なわれるようなやわなイメージではない。いま一度アントラーを見てほしい。昆虫怪獣として、何の不都合があろうか。

 余談だがアントラー完成後、着ぐるみの試着に訪れた演者に対して、ギミックの仕組みについて説明する高山の真剣な眼差しを捉えたスナップ写真がある。この何気ないひとコマには、感動を喚起されよう。自らの手で生み出したアントラーとの別れのとき、その手を離れる最後の最後まで我が子を慕う高山の想い。その愛情が窺える一葉として印象深い。


 さて以上が、高山によるアントラー造型について思うことの概ねである。成田との「ゴールデン・コンビ」によって生み出されたアントラーが、甲虫怪獣として如何に優れているか。その一端でも分かっていただければ、書き連ねた甲斐もあろう。幸甚の到りである。

 ところで成田による甲虫怪獣の稀少さについては、既に述べた。ウルトラ怪獣製作において、その殆んどを成田怪獣の造型担当として従事していた高山は、したがってアントラー以外の甲虫怪獣を手がけていない。このことも成田の場合同様に、その造型力の才覚からすれば惜しまれるところだ。

 たとえば、高山が造型を手がけた「虫」怪獣の中から、『ウルトラセブン』のグモンガ(第18話)とダリー(第31話)を採り挙げてみよう。前者は名が示すとおりクモをモチーフとしており、後者はシラミもしくはダニに着想している。つまり硬質な外殻を持った甲虫ではなく、一般的に「虫」と呼称される節足動物の類いだ。だがしかし、その“虫振り”の雄弁さはどうだろう。操演モデルないし着ぐるみとして製作され、生命づけられたこれら2怪獣の舞踏。その活き活きたる活動の源は、高山由来のキチン質にきらめく外殻と節足である。この造型の妙がもっとアントラー以外の甲虫怪獣に活かされていたら、果たしてどんなに魅惑的な“スカラベ”がそこに顕現したことであろうか。そう考えればやはり、高山造型による甲虫怪獣の稀少さも惜しまれて然るべきなのだ。


 そして...。高山が造型を手がけた昆虫怪獣として、是非とも『スペクトルマン』に登場したゴキノザウルス(第7・8話)について触れておきたい。

 ゴキノザウルスは、アントラーに比肩し得る昆虫怪獣の傑作と言えよう。いや、全「ゴキブリ・モンスター」の最高峰と言って良い。我々がゴキブリに遭遇したときに覚える嫌悪感・恐怖。生理を直撃するラジカルな「黒」。それは人工的に再現できるような代物ではない。生のゴキブリが持つ本性なのだ。しかし高山は、アントラーに「虫」を息づかせたときと同様、ゴキノザウルスにもそれをやってのけている。これはもう、“異能”と呼ぶほかはない。

 また高山はゴキノザウルス製作にあたって、アントラーでは果たせなかった6本肢の着ぐるみ怪獣を実現させている。前胸部一対の肢が宙に浮いた形になるが、この試みがまた面白く、且つ「気持ち悪さ」の体現に実に効果的だ。「く」の字に曲げられた前胸部の肢、「手」としての働きを持つ長い中胸部の肢、そして身体中心から放射状に伸び「足」として作用する後胸部の肢。直立歩行という有り得ないゴキブリの姿ながらしかし、6本足の無駄の無い配置には慄然とさせられよう。

 アントラーの項目において、ついゴキノザウルスを語ってしまったが...。しかし高山が造形した昆虫怪獣の白眉として、アントラーを語るならば、同俎上にゴキノザウルスが有ることにどうしても行き着いてしまう。それを避けて通れば、それは片手落ちであろう。そう思った次第である。ゴキノザウルスを見て、アントラーの魅力の再発見に繋がればという拙意を、何卒ご了承いただきたい。

前にのめるアントラー

 アントラーを演じた着ぐるみ役者は、荒垣輝雄である。荒垣は『ウルトラマン』において、実に16体もの怪獣を演じたウルトラマン怪獣の「顔役」とでも言うべき存在だ。ベムラー(第1話)に始まり、レッドキング(第8話)やジャミラ(第23話)、そしてゼットン(第39話)など、荒垣が演じた怪獣は、『ウルトラマン』を象徴するような怪獣たちである。まさに「顔役」たる所以だ。

 ここでは荒垣が演じたアントラーの、その前傾姿勢に着目してみよう。そもそもデザイン段階において、成田はアントラーに過剰な前傾姿勢の意趣を与えている。先にも触れたが、「立っていられない」ほどの傾斜は、もちろん着ぐるみ造型時で「立っていられる」許容範囲内に修正された。あとは実際にアントラーの中に入る荒垣の、演者としての裁量に委ねられたのだ。

 フィルム化作品を見れば判るが、荒垣はその要求にきちんと応えている。全く以って見事な“前のめり”だ。前傾姿勢は攻撃性の象徴であり、すなわち捕食動物の証しでもある。同じ荒垣が演じた前傾姿勢の怪獣にゲスラ(第6話)がいるが、両者ともアグレッシヴな“前のめり”が顕著だ。捕食者としての面目を、躍如していると言えるだろう。

古代翼竜から古代昆虫へ

 アントラーの鳴き声は、実に特徴的だ。あの耳に障るような、空気を切り裂く卦体な音が印象的である。整然とした歯列を有する「獣」が決して発するものではなく、まさに「昆虫怪獣」のものとして相応しい。

 その鳴き声は、東宝のラドンのものを高速再生して作られたと言う。ラドンは歯列こそ有するものの、翼竜としての意趣を持つ「非獣型」怪獣だ。古代の翼竜から古代の昆虫怪獣への転用。この発想がまた面白い。

 またアントラーは、「クコキコ...」と絶えず環節構造が軋むような音を立てている。それこそはまさに、昆虫としての生命活動の拍音だ。鳴き声と併せたこの奇怪な音のハーモニーも、ひとつアントラーのアイデンティティと言えよう。

39年目の警鐘

 アントラーについては『ウルトラセブン』企画時に、レッドキングペギラパゴスとともにカプセル怪獣として登場する勘案が構想されていた。もし実現したいたら、ウインダムミクラスアギラに代わって、果たしてどんな活躍を見せたことであろうか。

 木曾谷で放電の猛威を振るうエレキングに対しては、強靭な体が有効に働いたかもしれない。また「散歩する惑星」においては、首の長いリッガーに対して自慢の大顎を振るうくだりも有り得たであろう。いずれにせよその魅力的なフォルムから、白熱バトルは必至である。


 バルタン星人とともにブルマァク人形で人気を博したアントラーだが、バルタン星人のようにシリーズを越えての活躍には恵まれなかった。上記“カプセル怪獣案”が没となり、アントラーはその後長きに渡って身を潜める。

 そして2005年。『ウルトラマンマックス』第11話「バラージの預言」(脚本:尾崎将也 監督:金子修介)において、大顎の猛者は漸く再登場を果した。昭和41年から39年目のことである。

 平成版のアントラーは、ただ禍を為す昭和のものとは違い、自然破壊の履行者である人類を滅ぼすものとして登場した。よって出現場所も砂漠ではなく、一般市民が棲まう市街地だ。堕落した人類に対する怒りの鉄槌。もちろんこれは、旧約聖書の“ノアの洪水伝説”に着想を得ている。太古においては神聖視された「甲虫」。その姿を有した大いなる力が、単なる破壊者ではなかったということだ。昭和では明言されなかった「含み」が、平成版で汲み取られたということであろうか。またウルトラで育った怪獣世代が大人になり、逆にウルトラを世に放つ立場となったことで発したオマージュとも捉えられよう。

 この新生アントラーの物語を監督した金子修介は、平成版のゴジラ・シリーズとガメラ・シリーズ両方を手がけており(『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』2001年、『ガメラ 大怪獣空中決戦』1995年、『ガメラ2 レギオン襲来』1996年、『ガメラ3 邪神覚醒』1999年)、そもそもは怪獣ファンとして知られる。昭和版がスペシウム光線を撥ね返したように、金子版アントラーもマックスの必殺技・マクシウムカノンを無効化しており、そういった心憎い演出には、同じ怪獣ファンの同胞としてにやりとさせられよう。また、昭和版では見られなかったアントラーによる市街地の破壊スペクタクルには、血湧き肉も躍る。是非とも一見のほどを。

宇宙怪獣アントラー

 アントラーは、ウルトラマンのスペシウム光線を撥ねつけた最初の怪獣だ。それまで無敵を誇ったヒーローの必殺技が敗れる!本来なら衝撃的なシーンとなろう。だが実際にそのシーンを見てみると、アントラーの「事も無げ」振りには驚かされる。肩すかしを喰らわされた感じだ。何喰わぬ様子で、泰然として余裕綽々、あっけらかんとするアントラー...。もちろんこれによってウルトラマンはピンチに陥るのだが、このシーンから感じ取れるのは、危機感よりも「ああ、そういうこともあるだろうなぁ」という妙な納得感だ。この戦いにおいて、スペシウム光線が敗れるなど単なるプロセスに過ぎない。そう言わんばかりのシーンに映ってしまうのだが...。

 たとえばバルタン星人2代目(第16話)は、かつて手酷くやられてしまったのを教訓に、自らスペルゲン反射鏡を取り付けることによって弱点を克服、見事スペシウム光線を撥ね返した。まあ言ってみれば努力家であり、「してやったり」感も高揚しよう。(もっともその直後、バルタン星人はウルトラマンの新必殺技・八つ裂き光輪で寸断されてしまうのだが) 本来ならそういう風に、ヒーローの必殺技については軽んじられようもない筈だ。しかしこのアントラーの「事も無げ」な態度はどうだろう。

 実はアントラーは、当初は宇宙怪獣として設定されていた記録がある。地球の常識が通用しない宇宙怪獣であれば、そりゃあスペシウム光線が効かないのも無理からぬこと。まさに「そういうこともあるだろうなぁ」感にも、説明がつこう。したがってこのシーンがさほど一大事に映らないのは、アントラーという怪獣が当初の設定のまま忠実に描かれたからではなかろうか。ケタ外れた身体能力と生命力。地球上の非常識は、宇宙の常識。アントラーはそれを体現しているのである。

 ところで「宇宙怪獣」なるものとして、本邦において初めて獣性を具えて顕われたのが、東宝の『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)に登場したキングギドラだ。黄金に輝く三つ首の竜の常識外れな強さは、殊更言うまでもないだろう。その出現は衝撃的であり、本邦における怪獣史に燦然と輝く。そして『ウルトラQ』や『ウルトラマン』の頃における「宇宙怪獣」なる設定もまた、下等動物の姿を有しながらも、その攻撃能力や生命力は地球怪獣のそれとは比較にならないのが一般的であった。『ウルトラマン』怪獣について言えば、アントラーとともにアボラスバニラ(第19話)、そしてジェロニモン(第37話)が、当初は「宇宙怪獣」として設定されていた。いずれも“出身地不明”とされるのが、共通した特徴だ。

 旧約聖書に記された遥か太古の時代より、人びとを脅かしてきたアントラー。太古の力は未知なる力。人智及ばぬもの。その測り知れないパワーの源泉は、宇宙の不可思議に託されているのである。

“欠損”の意味

 強靭な身体を誇るアントラー。だがウルトラマンとの戦い終盤には、自慢の大顎の片方(右側)を、ウルトラマンのチョップによってへし折られてしまう。敵を挟み込み、更には磁力光線を発する大顎は、攻撃の要であるとともにアントラーの象徴的シンボルだ。その片方を欠くのである。さしもの大怪獣も“形無し”だ。

 このようにウルトラマンによって、怪獣が大事な攻撃部位を欠損させられるシチュエーションは、ほかにもいくつか見受けられる。たとえばネロンガ(第3話)は、放電光線を放つ鼻先の角を折られ俄然力が弱まった。またグビラ(第24話)は最大のアイデンティティである鼻先のドリルをやはりへし折られて、その後は成す術も無くウルトラマンに倒されている。いずれも要所を欠いたその姿には、もはや大怪獣としての威厳は無きに等しい。

 相手の鼻っ柱を去勢する。こういったくだりは、クライマックスとして描かれる戦いのシーンにおいて、更に高揚感を煽ることに繋がろう。ヒーローが劣勢から攻勢へ変わる瞬間こそ、見るものは「待っている」のであり沸騰するのだ。見た目にも痛々しい「欠損シーン」だが、ヒーローのカッコ良さを際立たせるドラマツルギーとして必要なのである。

 そしてまた、いやもしかしたらこちらの方が本意なのかも知れないが、「怪獣」という“一個の生命”の行方を丁寧に物語るものとして然るべきなのではないだろうか?光線で簡単に木っ端微塵にされるのではなく、先ずは身体の一部を欠損させられて、そして弱まったところにトドメの一撃...。そんな“生命の段取り”を語るものとして。

唯一のグローバリゼーション

 怪獣出現が日本に集中する。番組が日本で制作され、そして日本人に向けて発信されるものである以上、この不自然さは致し方ない。毎週放映されるものに対して海外ロケは不可能だし、よしんばミニチュアやセットなどでごまかせたとしても、登場する人種について無理が生じよう。だいいち、よく知りもしない外国を舞台にしても、見るものとしては興を殺がれること甚だしい。当たり前のことだが、以上が本邦の特撮物における「日本が舞台」の主たる理由だ。

 しかし宇宙や他天体は舞台となる。無論ロケなどままならぬが、それこそミニチュアやセット、ときとして荒地へのロケなどで賄えるからである。また宇宙や他天体が「どこの国」にも属さず、「こうであろう」というイメージが概ね世界共通であるというのも、宇宙が舞台となり得る大きな要因だ。もちろん未知なるものへの興味も有ろうが、反面無知であるが故に何とか成り立つのも事実である。遥か遠い宇宙が、それよりは近い諸外国を凌駕する所以だ。またこのことは、海底や地底、そして南北両極地についても同じことが言えよう。先ずは日本が舞台。日本でなければ、その目は宇宙・海底・地底・極地へと向けられ、海外へ向かうことは決して無いのだ。

 だが本エピソードは、中近東の砂漠が舞台となっている。“バラージ”という名の町は、外国の町だ。古代の伝承を信じ、また建築物も現代社会から著しく立ち遅れてはいるものの、紛れもない海外である。もちろん町並みはセットで、町民は全てそれらしいメイクを施された日本人だ。また砂漠などは、「何処の砂漠でも大して変わりはなく、とどの詰まりは唯の砂」というコモンセンスの下、大量の砂で作られた擬似砂漠である。ここで触れたいのはそんな「ごまかし」のことではなく、舞台をわざわざ海外に設定したその意図だ。

 『ウルトラQ』や『ウルトラマン』が放映される以前、東宝の怪獣映画が全盛であった。東宝映画の怪獣と言えば、たとえばアンギラス(シベリア)やキングコング(ファロ島)、モスラ(インファント島)など、海外に出自を持つものが多い。特に『モスラ』(1961年)では、モスラ誕生シーンが南国の島・インファントで描かれるばかりか、クライマックスでは架空の外国・ロリシカが舞台となる。ニューヨークとモスクワを併せたような異国情緒は大掛かりなセット撮影で表現され、全く以って「海外の都市」として申し分無い。これは全て、巨費を投じられて制作された映画作品であるからこそ実現し得たのであり、「怪獣は世界のあちこちで出現するべき」という本来そうあるべき考えを体現できたのである。

 『ウルトラマン』が放映を開始した昭和41年当時は、まだ東宝の怪獣映画の影響が強かった時代だ。したがって中近東の砂漠を舞台とした本エピソードも、実はそういった東宝怪獣映画の本来的な考えに基づいていたのだろう。いやそうでなくても、「怪獣出現が日本に集中する」という不自然さには、自ずと行き当たるというもの。予算や余裕の許す限り、海外を舞台としたエピソードもいくつかは制作されて然るべきだ。そのような当然な考え方が、旧約聖書を絡めた砂漠の物語を実現させたのであろう。

 だがしかしテレビシリーズにおいて、海外を舞台にすることはやはり無理があった。予算と時間的な余裕が無い。事実その後の『ウルトラマン』における画面に現われた海外らしい海外はと言えば、第26話「怪獣殿下 前篇」のジョンスン島のみを挙げるばかりだ。その南方の島も、裏磐梯や多摩湖周辺のロケを以ってしている。「バラージの青い石」のように、建造物の大掛かりなセットは組まれていない。よって本エピソードこそ、シリーズ初の本格的な海外舞台作品であるとともに、唯一無比であるのだ。

 テレビシリーズにおける「海外が舞台」。その困難さ。そういった意味合いにおいて、昭和42年より放映が開始された『ジャイアントロボ』は注目に値しよう。第4話「妖獣ライゴン」や第13話「悪魔の眼 ガンモンス」など、まさに“異国”を舞台とした物語が、多くは無いもののいくつか見受けられるのだ。週一本のハイ・ペースという厳しい制作状況を鑑みれば、このグローバリゼーションは驚くべきことである。“奇跡”と言っても良いくらいだ。拙さは際立つものの、ウルトラが実現し得なかった世界的規模の怪獣ものを実現したその“頑張りよう”を讃えるものである。

 『ウルトラマン』と『ジャイアントロボ』。昭和41年と昭和42年。「世界各地で暴れる怪獣たち」。その刺激的世界観を、まだ諦めていなかった時代なのだ。

金城哲夫、ユートピアへの憧憬

 5000年前もの遥か悠久の向こう、旧約聖書に記された『創世記』の時代に、既にウルトラマンは地球を訪れていたのだろうか?果たして...。

 かつて人類は己が堕落のために神の逆鱗に触れ、大洪水の危機に晒された。その際“ノア”は、神の啓示によって現在の人類の祖先となるノアの息子や鳥獣たちを方舟に乗せ、洪水から救ったとされる。そう記された『創世記』において、“ノアの箱舟”が流れ着いたと伝承されるアララット山。その山を望む町・“バラージ”の寺院には、“ノアの神”としてウルトラマンに酷似した像が奉祀されている。これがウルトラマンの過去の訪問を示す証拠でなくて、一体何であろうか?“ノアの神像”を前にムラマツら一行は、一様に驚くのであった。

 人類の第二の祖先と呼ばれる“ノア”とはつまり、現在我々が知るウルトラマンだったのだろうか?人類や鳥獣たちの“種”を洪水から救った「ノア」と、かつてバラージに災厄をもたらした悪魔・アントラーを葬ったとされる「ノア」。そして現代に再び甦ったアントラーを、「ノア」の青い石の力を借りて倒した「ウルトラマン」。これらの関係性とその意味するものは?いずれにせよ時に忘れ去られた幻の町・バラージにおける“ノアの神像”の存在は、遥か太古においての人類とウルトラマンとの関係を暗示するものとして興味深い。

 ちなみに2004年より円谷プロが提唱した〔ULTRRA “N” PROJECT〕の第1弾作品として、「ウルトラマンノア」なる新ウルトラヒーローの物語が雑誌展開された。遥か太古より宇宙の平和を守ってきたというウルトラマン“ノア”のヒーロー像とそのネーミングは、もちろん本エピソードにおける“ノアの神”に着想してのことだ。これによってかつては暗示止まりだった「ウルトラマン=ノアの神」という図式が、かくて明示されたのである。

 人類とウルトラマン。両者の先史時代よりの結びつきが開陳される重要なこの物語を書いたのは、『ウルトラマン』のチーフ・ライターを務めた沖縄出身の金城哲夫である。(南川竜との共著) ともすれば殺伐とした「怪獣殺し」のドラマに成りかねない『ウルトラマン』を、優れたファンタジーに仕立て上げたほかならぬ功労者だ。金城は旧約聖書の『創世記』に絡めた本エピソードにおいて、ひとつの提示を試みている。

 物語のクライマックス。金城は、ウルトラマンと寺院の神官・チャータムが、思念(テレパシー)によって語り合うシーンを描いている。このことは、かつてウルトラマンと人類の祖先とが、心の言葉で通じ合っていたことを示すものだ。更に突き詰めれば、太古の世界が国家や民族を超越した“ユートピア”であったと推し量れよう。何らの悪意も無い理想郷。無何有の郷。金城が『ウルトラマン』に託したのは、まさにこのユートピア思想なのだ。

 太平洋戦争中の沖縄に出自を置く金城は、ほかの沖縄人がそうであったように、沖縄のアメリカからの独立を切望していたひとりであろう。その国粋主義は“琉球ナショナリズム”とでも呼ぶべきものであり、アメリカはおろか日本本土からの独立・自立を以ってこれの充足が果たせるというものだ。

 だが若かった金城は沖縄に執着する一方で、中央(東京)への憧れも持っていた。事実金城は中学を卒業すると、同学年の誰よりも早く上京している。沖縄を離れやがて青年への成長に伴い、“琉球ナショナリズム”は熟成されていったことであろう。円谷文芸部の門を叩き、『ウルトラQ』のチーフ・ライターとして抜擢された金城。東京で生きる沖縄人として、「沖縄と日本の架け橋」なる使命を自らに課すことによって、琉球ナショナリズムはそのままに、国際主義の理想を持つようになる。

 しかしナショナリズムと国際主義とは、当然相容れない。相反するものだ。「沖縄の独立」を願うナショナリズム。「沖縄と日本の架け橋」としての国際主義。これらの両立。沖縄と日本の狭間で揺れ動き、葛藤と逡巡の果てに金城がたどり着いたのは、そう“コスモポリタニズム”であった。

 コスモポリタニズム。超国家主義。それはつまり、「強者(日本)の慈愛に見守られながら、弱者(沖縄)が自立するのが望ましい」とする、金城自身の切実な博愛主義の顕われだ。力を持っている者が、武力によってではなく、それこそ“兄貴的な”思い遣りで、力を持っていない者の自立を促す。かくて弱者・沖縄の威厳も保たれ、紛争の無い平和的な国際主義ともども、琉球ナショナリズムが完遂するのだ。この強者と弱者の関係性を投射したのが、ウルトラマンと人類のそれであることは、もはや言うまでもないだろう。

 “ウルトラマン”に自身のコスモポリタニズムを託し理想郷を描こうとした金城が、ひとつのオルタナティヴとして、「古代の人類は既にそうあった」と提示したことは実に興味深い。それは、ユートピアたり得た“古代”という名の別世界へ向けた「憧憬」の眼差しであったのだろうか。または過去に学べば博愛主義の達成が、現在の人類にも可能であるという「希望」であったのか。いずれにせよ金城のこの馳思に、優しく包まれた世界が『ウルトラマン』なのである。

 その後のウルトラ・シリーズ、特に平成のシリーズにおいて、こういった「ウルトラマンと人類の関わり合い」を描いたものが幾つか見受けられる。だがそれらはエンタテイメントとしては面白いが、如何せん生み出されたバックボーンが、昭和当時とはあまりにも違い過ぎるのだ。もはや「戦後」は遠のいたのである。したがって「バラージの青い石」は、「ウルトラマンと人類の関わり合い」を描いたシリーズ初の試みであると同時に、既に至上であったのだ。

ユートピアの神官

 バラージ寺院の神官を務める、ミステリアスな美女・チャータム。バラージ王朝の末裔という設定だ。

 演じたのは弓恵子という女優である。1955年に東宝の『赤いカンナの花咲けば』でデビューして以来、数々の映画に出演し、テレビでは水戸黄門での悪女役などで活躍した。同じ円谷作品では、『怪奇大作戦』第2話「人喰い蛾」に出演している。

 彼女は実は、『仮面ライダー』でゾル大佐(第26話~第39話)を演じた故・宮口二郎の妻でもあるのだ。チャータムとゾル大佐。この結び付きが面白い。何故なら、ショッカーによって日本に派遣されて来たゾル大佐も、それ以前は中近東で活躍していたという設定だからである。

























ウルトラ 場外 ファイト

 “アントラー”のネーミングは、アリジゴクを意味する「ant-lion(アント・ライオン)」に由来したとされる。アントラーは“磁力怪獣”という別称を持つが、擂り鉢状の罠を張り獲物を捕らえる習性から“ありじごく怪獣”とも称されるので、この説は有力であろう。だが一方で、雄ジカの枝角など一対の大きな角を総称する「antler(アントラー)」からであろうという説もある。確かに大顎をもたげたそのシルエットが、鹿の角に見えなくもない。いずれにせよ、どちらとも捉えられるダブル・ミーニング的な素晴らしい名称であるとともに、怪獣の呼称としてその響きが極めてキャッチーである。










ウルトラ 場外 ファイト

カブトムシか?クワガタムシか?
両甲虫は、
子どもたちの人気を二分する。

ウルトラ・ビートル・ファイト
開幕~!

◆アントラー
(『ウルトラマン』第7話):
クワガタムシ
+カブトムシという、
至上のフォルム。
◆ノコギリン
(『帰ってきたウルトラマン』
 第26話):
頓狂な顔つきの
宇宙クワガタムシである。
◆サタンビートル
(『ウルトラマンレオ』第25話):
何と、
カブトムシは宇宙の侵略者!
◆グワガンダ
(『ウルトラマン80』第36話):
つんのめった恰好が、
まさにノコギリクワガタだ。
◆ジョバリエ
(『ウルトラマンティガ』
 第28話):
アントラー状の角はつまり、
クワガタムシの大顎でもある。
◆バグダラス
(『ウルトラマンマックス』
 第8話):
「人型」が著しい
クワガタムシ怪獣。
◆インセクタス
(『ウルトラマンメビウス』
 第14話):
甲虫怪獣一奇態な
フォルムを持つ。























ウルトラ 場外 ファイト

 『アサヒグラフ』(1966年5月27日号)には、アントラーがミニチュアのビル街に佇む写真が掲載されている。このビル街は、積み木のように持ち運びが可能だ。ほかに『ウルトラQ』第24話「ゴーガの像」や『ウルトラマン』第2話「侵略者を撃て」、同第15話「恐怖の宇宙線」でも使われた都心セットであり、ファンの間では親しまれている“お馴染み”のミニチュアである。


ウルトラ 場外 ファイト

前面に付けられたアントラーのファスナー。だがこのことが、トンでもない椿事を起こしている。『ウルトラマン』放映に先駆けて、『ウルトラマン前夜祭 –ウルトラマン誕生-』なる番組が放映された。その舞台に登場したアントラー...だが、その体が!後ろ前逆での登場だったのだ!これは「ファスナーは通常背中にあるもの」と演者(泉梅ノ介)が、おそらくは勘違いしたものとされている。だが、どうだろう。あの頓狂なラゴン(第4話)の演技。そこから推して量れる人柄から、実は泉がワザとそうしたのではなかろうか?いずれにせよ、そう思わせる泉梅ノ介という人格が偲ばれよう。





ウルトラ 場外 ファイト

完成したアントラーの着ぐるみ。その試着のために高山の工房を訪れたのは、実際に劇中でアントラーを演じた荒垣輝雄ではない。どういった理由によるものなのか分からぬが、カネゴンやブースカ役者としてお馴染みの中村晴吉だ。荒垣の身体の寸法に合わせて全てオーダーメイドで作られたアントラーだけに、これは何とも不思議なことである。






























ウルトラ 場外 ファイト

スペシウム光線を
ものともせず!
では何が奴らを倒したか?


◆アントラー(第7話):
“ノア”の神像が
手にした青い玉、
ムラマツがそれを投擲!
◆バルタン星人2代目
 (第16話):
“スペルゲン反射鏡”で
リベンジも、
八つ裂き光輪でバッサリ!
◆ケムラー(第21話):
イデ発明の
“マッドバズーカ”を
急所に喰らい、
火口へ落ちて爆発!
◆ケロニア(第31話):
スペシウム光線は
全く効かないが、
アタック光線であっさり!
◆ゼットン(第39話):
何とスペシウム光線を吸収、
最期はペンシル爆弾で
空中四散!

















ウルトラ 場外 ファイト

ウルトラマンによって、
攻撃部位をへし折られた
怪獣たち
さてさて、どの箇所を失ったか?


◆バルタン星人(第2話):
空中戦のさ中、
左腕のハサミを。
◆ネロンガ(第3話):
放電攻撃の要となる
鼻先の角を。
◆アントラー(第7話):
自慢の大顎、
その右側を。
◆グビラ(第24話):
高速回転する
鼻先のドリルを。
◆ゴモラ:(第27話)
三日月形の角、
その左側を。
(尻尾と鼻先の角は、
ウルトラマンの功績ではない)
◆ザラガス(第36話):
6千万カンデラの光の源、
鼻先の一本角を。























ウルトラ 場外 ファイト

 中近東の砂漠にある幻の町“バラージ”。その町並みや城壁、そして町の寺院など、劇中で使われた大掛かりなセットが印象に残る。これは東宝映画『奇巌城の冒険』(1966年)で使用されたものを、同じ東宝助監督出身である野長瀬三摩地監督がよしみで借り受けたものだ。







ウルトラ 場外 ファイト

 シリーズ中唯一『ウルトラマン』だけに見られた共著、すなわち金城哲夫と南川竜の“金竜コンビ”によるコラボ脚本作品。
ちなみに「南川竜」は、野長瀬三摩地監督の脚本執筆時のペンネーム。

  • ◆第7話「バラージの青い石」
  • ◆第18話「遊星から来た兄弟」
  • ◆第29話「地底への挑戦」














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砂漠の厄災、アントラー登場!








“広告塔”として、優れた容貌を持つ






















神聖なる“スカラベ”、鈍の輝き




















「非人型」への飽くなき試み








「虫」はいつの時代でも子どもに愛される



















アントラーは、成田が生み出した唯一の甲虫怪獣だ













「融合」における、様々な恐怖の有り様を見よ





魅惑の硬質感に、俄然刮目だ



大顎は、アントラーの「命の源」























たとえ、どんな色に塗られようと...














“高山キチン質”による、「虫」の躍動












高山発、「黒の恐怖」
















捕食者は、前傾姿勢で身構える




「獣」ではなく、「鳥」や「虫」に相応しい声





“カプセル怪獣”・アントラーの活躍は如何に?










平成アントラーは、都市に災いをもたらす












スペシウム光線、敗れたり!














宇宙怪獣の生命力は、人智を遥かに超越する



















“シンボル”をへし折られ、そして...














怪獣は、世界あちこちに現われて然るべきだ






怪獣の海外活動、その困難への挑戦

















方舟でお馴染みの“ノア”、その正体は...!









“ユートピア”の使者、ウルトラマン!






特撮界における中近東夫婦


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