熾烈な火山活動や、それに伴う頻発地震及び地殻変動、地磁気の狂いなど、苛烈極まる環境の変動で、恰も原始世界のように変容してしまった太平洋上の多々良島。その影響下において現代に覚醒した怪獣群の一匹で、島の地底を棲み家とする地底怪獣だ。全身を頑健な皮膚で覆われ、前肢の鋭いツメや背面のトゲで地盤を掘削、地中を移動する。地上での行動は遅鈍。ツメやトゲと併わせて、長い尻尾も武器となる。ごつごつとした厳つい不体裁には似つかわしくない臆病な性格の持ち主で、島の怪獣王者・レッドキングの咆哮を耳にしただけで、地中へさっさと身を隠してしまうほどの小胆さだ。だがそれも弱肉強食の無慈悲な世界を生き延びるために備わった、生得の強かさとも捉えられよう。ひとたび自身より弱者と見做すや、容赦なく襲い掛かる。測候所所員捜索のため、島の東部溶岩地帯に赴いた科特隊のムラマツとハヤタの前に、突如姿を現わし急襲した。しかしナパーム手榴弾の20メートル至近弾を2発喰らい、呆気なく撃退される。その生死は不明。ウルトラマンと戦うことは無かったが、この攻防戦でハヤタ(=ウルトラマン)にケガを負わせている。
身体髪膚を埋め尽くす多面体ブロックの連鎖。背面及び頭部の夥しいトゲトゲ。そして真っ黒なボディ。まるで黒い水晶の原鉱を背負っているかの如く出で立つ地底怪獣マグラー。ウルトラ怪獣の中では地味な部類に入る怪獣だが、マグラーは宝石の如き心奪う外貌を持っている。その魅力の淵源とは...
マグラーの縫いぐるみは、第3話登場のネロンガをベースに、トゲトゲなどの過剰な外装を纏わせて改造したものである。造型を担当したのは、ネロンガも手がけた佐々木明だ。だがネロンガ自体そもそもは、『ウルトラQ』のパゴス(第18話)からボディ部を流用しており、更に元を辿れば、東宝からのバラゴン(『フランケンシュタイン 対 地底怪獣 』 1965年)借用に出自が到る。すなわちマグラーは、大本のバラゴンから数えれば4体目に当たる、所謂「縫いぐるみ使い回し怪獣」ということだ。更にその後はガボラ(第9話)、アトラクション用のネロンガを経て、そして東宝に返却されてから再びバラゴン(『怪獣総進撃 』 1968年)として再使用された。斯様にひとつの縫いぐるみを数体の怪獣に転用した例は、先ず見当たらない。
この縫いぐるみリサイクルの累次からは、既往の円谷プロの台所事情、その逼迫の有り様が窺えるようで実に興味深いのだが...それはさておき。バラゴン→パゴス→ネロンガまではその改造の度合いも、頭部の挿げ替えだけに留めた、言わば「リペアー」程度に過ぎなかった。だが殊4体目のマグラーに到って、大規模な「リフォーム」が為されている。
背面のトゲトゲや頭部の突起、満身隈なく覆い尽くす多面体ブロックの連接など、バラゴンから連綿と受け継がれた巨躯のほぼ全体(腹部は除く)を包み巡らすデコレーション。加えて体色までもが黒く再塗装され、それまでの3体とはまるで外観を異とする怪獣が新たに産声を上げた。引き継がれたバラゴンのボディ部は、単にマグラーという装いを着せるための素体であり、また新家屋を支える土台に過ぎない。言うなれば皮膚の二重構造を以って、マグラーの金城鉄壁は完遂したのだ。
ところで、この転用の順序について。一般的には [バラゴン→パゴス→ネロンガ→マグラー→ガボラ]と認識されているが、果たしてこれは正しいのだろうか?実は[ネロンガ→マグラー→ガボラ]における後半3体の順送りには、様変わりの具合から鑑みて、不自然な流れがあるように思えてならない。マグラーとガボラの順を入れ換えて、[ネロンガ→ガボラ→マグラー]とした方が、合点がいく序列に思えるのだが?
マグラーは上述のとおり、過剰な装飾の上に黒い塗装が為されている。ネロンガとガボラを見れば判るが、両者のボディにはマグラーのような飾り立ては無く、また双方の体色も黒ではなく似通った茶系だ。もし定説通りネロンガとガボラの間にマグラーを介するのであれば、一度被せたデコレーションを引っ剥がさなければならないし、黒を再び茶色に塗り直さなくてはならない。これはどう考えても手間だ。往時の現場の繁忙さから推して、制作進行のスムーズさに無頓着であった訳が無い。合理的性急さは、もはや必定であっただろう。いや、そんな事情は抜きにしても、単純に三者を並べてみれば、マグラーが真ん中に収まるということの居心地の悪さが、「見た目」で判然とする筈だ。にも関わらず、[ネロンガ→マグラー→ガボラ]の順番が浸透・膾炙している。何故か?
成る程放映順に準えば、ネロンガ(第3話)、マグラー(第8話)、ガボラ(第9話)の流れが至極尤もであると頷ける。だが周知のとおり、初期ウルトラ作品は必ずしも放映順に制作されていない。いわゆる“脚本No.”を順に辿れば、ネロンガ(No.3)、ガボラ(No.7)、マグラー(No.8)となる。そう、もしこの“脚本No.”に忠実に準拠して制作されていたのならば、ガボラが先でマグラーが後ということ自体重々考えられよう。しかし複数班に分かれて各話が同時進行で制作されていた体制を考慮すると、「No.7が先であったか、No.8が先だったか」などという、携わったスタッフでさえリアルタイムでなければ茫としか言いようの無い、過ぎ去った時系列についての推断は困難だ。加えて、本編のドラマ部分と特撮部分を分けて撮影する特撮物である。怪獣の縫いぐるみの搬入が、全体どのタイミングであったのかなど、これはもう迷宮の域だ。判ろう由も無い。いずれにせよ、放映順とは別に制作順があるということ。これがまた[ネロンガ→マグラー→ガボラ]を一概に応とは首肯させずに、[ネロンガ→ガボラ→マグラー]説に引っ掛かりをもたらしているのである。
大本の根幹であるバラゴンのボディは、最終的には東宝に返附され、『怪獣総進撃』(1968年)で再びバラゴンとして陽の目を見た。東宝への返納前には、アトラクション用のネロンガとして使われていたとも聞く。また近年になって、「画面で見るガボラの表皮や歯には、マグラーの黒色が認められる」などという記述も目にした。そしてマグラーには、ネロンガ由来の鼻先の一本角が存在し、ガボラにはそれが無い。更には第8話「怪獣無法地帯」の撮影は6月頃で、第9話「電光石火作戦」は7月頃という記録も残されている。これらを考え併わせれば、黒色のマグラーが茶色のネロンガとガボラの間に入ること自体に、然したる不自然さが無いのかもしれない。何処にマグラーが入ろうと、結局は茶色に戻っているのだから。しかしそれだけでは、殺人的忙中における装飾の取っ払いや再塗装の手間隙、その不合理さに納得ゆく説明がつかない。また制作No.順の件もある。一応は流布されている[ネロンガ→マグラー→ガボラ]に準ずるが、だからと言って一握りの疑念が晴れている訳ではない。
さてパゴス・ネロンガと続いて、さすがに「首の挿げ替えだけでは...」という顧慮・意向があったのか。何にせよデザインを手がけた成田亨は、地底怪獣マグラーに対して、「元の怪獣が何であったか」が判ってしまうような、安易な意匠を頑として許容しなかったのである。ネロンガからマグラーへの化けっぷり。それは換言すれば、「縫いぐるみの再利用」を広義に解釈し、ややもすれば逆手に取ったのかもしれない。それほどマグラーの縫いぐるみにあっては、「改造」よりも「新造」といった言葉の方が相応しく、しっくり折り合うのだ。
とは言え、よし「首の挿げ替え」だけであったとしても、前衛美術家・成田の才を以ってすれば、「流用隠し」は充分事足りたのではなかろうか?それはパゴスとネロンガという、同じボディを有しながらも頭部の挿げ替えだけでまるで印象を違えてしまった両怪獣の実績が、雄弁に物語っているではないか。換骨奪胎とでも言うべきこの汎用性。鬼才故に為し得る変奏曲、その顕現である。
もともと成田は縫いぐるみの使い回しを拒否し、ゼロからの怪獣創造を旨として怪獣デザインに相対した。だが前述したとおり、円谷の台所事情がその条件を全て飲める筈もない。結果「縫いぐるみリサイクル怪獣」のためのデザイン・ワークが幾度か為された訳だが、これは成田にとって不本意以外の何物でもなかったと推し量れよう。
しかしここからが成田亨の本領、畏怖すべきところだ。マグラーのデザイン画からは、気乗り薄や不承不承、仕様事無しといった否々感が微塵も感じられない。それは単に元のネロンガ(ないしパゴス・バラゴン)を覆い隠すための掩蔽工作などではなく、新調縫いぐるみのための創作活動であったと言えよう。いや使い回しだとか新調だとか、そんな下らない域は疾っくに超越した、“新生命”を生み出すが如き、これはもう芸術家冥利に尽きる仕事であったのだ。マグラーという一作品に注がれたバイタリティー、刺激的な試み・仕掛けの有り様を次に敷衍してみよう。
律せられた結晶構造の如き多面体ブロックが連接配列。身体各所によって、ブロックひとつびとつの大きさと形状が変容。それらは末端部位、例えば尻尾の先端に向かうほどグラデーション状に小さくなり、玉蜀黍の種子のように密集す。背面に向かえば、角塊は鋭利に尖って植物の如く群生。漆黒の巨躯。それはまるで、地を這う黒いクリスタル・クラスター。地中から出現した際の、土砂を被った姿は尚更。(若しくは、潮間帯の岩礫底に蹲うウニ?)
デザインを受注した時点で、既に脚本なりシナリオなりに目を通していたであろう成田が、地底怪獣出現シーンの演出効果に然有らぬ体であった訳が無い。演出家・成田亨として自分なりのプランや構想、視覚に訴える仕掛けのあれこれがきっとあった筈だ。黒い鉱石のような巨体が地中から現われ蠢く。狙いはやはりそれだ。ウニも捨て難いのだが...。
鉱石を好んでモチーフとした成田は、「鉱物と動物の中間生物」とでも言うべき怪獣のデザインを幾つか手がけ、融合体のオルタナティヴを具現化して見せた。“ハイブリッド”は、前衛美術家の当為だ。『ウルトラQ』のゴルゴス(第7話)をはじめ、『ウルトラマン』のブルトン(第17話)、『ウルトラセブン』のアンノン(第16話)などが、「鉱物+動物」を実践した融合例の代表格と言えよう。「如何にも怪獣」的な姿から極めて凡庸に見られがちだが、「動く黒水晶」を体現するマグラーも、これら「鉱物怪獣」群の中に名を連ねて然るべきである。単なる「地底怪獣」のひと言で片付けられる代物では、決してないのだ。
その後成田は、背面のトゲトゲを放埓に乱立させ、更にそこに発光させるギミックを施した四つん這い怪獣を生み出している。灼熱怪獣ザンボラー(『ウルトラマン』第32話)だ。トゲが透明素材で形成されている分、ザンボラーの方がより水晶の原鉱を髣髴とさせる。黒いマグラーと赤いザンボラー。両者を並べて比較し閲すれば、成田の鉱物への執着が垣間見れることであろう。
さてそれでは、注視の目をマグラーの頭部に向けてみよう。まるで植物のように群生する幾多のトゲや突起の繁茂は、見るものをして肌理を粟立たせるほどの夥多加減だ。殊に顎下における突起の過密などは、悍しい事この上ない。既述したが、もはや元のネロンガを隠蔽するなどという生易しい域は、遥かに凌駕している。生理を直撃する異常さ、有り得ない過剰さだ。
だが、それこそは生命であるということを、我々は体で知っている。ときとして嫌悪を催させるような姿を覗かせるのが自然の産物、生命の正体だ。シュルレアリストである成田は、まさにシュール(有り得ない)でレアリスム(現実)な創造を実践するのである。ペギラ(『ウルトラQ』第5・14話)の腹部に配されたフジツボ状の突起の点在、ザラガス(『ウルトラマン』第36話)の背面に敷き詰められた円筒孔の放列など。蛇蝎の如く嫌われるこれらの要素は、一瞥では「有り得ない」ものとして、理性によって断固拒絶されてしまうであろう。しかし同時に掻き鳴らされた本能の絃は振動を止めず、結句「有り得る」グロテスクさを息衝かせるのだ。前衛美術家・成田亨による創作実験の畏ろしさ、その発現である。
次に、多面体ブロックの連接で構成された体表に目を転じてみよう。同様な試みの痕跡が、奇しくも(?)同じ第8話に登場したレッドキングにも見られる。二足直立型のレッドキングについては、腹部と頭部におけるブロック塊の大小の差異を極端につけることで、同一体上のパースペクティヴ、つまり遠近の錯覚を誘発させるような仕掛けとして作用した。これに対し四足歩行のマグラーには、残念ながらそのような効果は見られない。あくまでも堅く、厳めしい皮膚の印象付けとして機能するばかりだ。マグラーは、とことん徹底された「地底怪獣」なのである。
マグラーやレッドキングなどに施されたこのようなブロック構造は、成田怪獣では特徴的に見受けられるデザイン手法のひとつだ。ファンの間では、通称“成田ブロック”などと呼ばれている。『ウルトラマン』に登場したケムラー(第21話)とゼットン(第39話)などの四肢を見ていただきたい。そこに施工されたブロックの連接は、まるで蛇腹構造のようだ。剛堅と柔軟という本来排斥し合うべき両極性が、同居している摩訶不思議。レッドキング・マグラーからケムラー、そしてゼットンへ。まさに成田ブロックの系譜連接であり、定向進化である。
だが最も着目したいのは、多面体ブロックの角塊が、背面に向かうほど尖頭型に形状を変容させゆく、その諧調だ。実に美しいハーモニーである。恰もクラシック音楽の劇的変調を、目で聴いているようだ。波立ちざわめく旋律。艶めく漆黒のクリスタルが奏でるリズム。マグラーの魅力の淵源は、まさにここにあるのではなかろうか。
当初マグラーの縫いぐるみは、東宝のアンギラス(『ゴジラの逆襲 』1955年)を借り受けて改造する予定であった。アンギラスと言えば、先ず目に付くのは、剣山のようにトゲが屹立した背中だ。アンギラス流用の知らせを恐らくは前もって受けていたであろう成田が、背面のトゲトゲを活かそうと企図していたかどうかは定かではない。だが結果的にネロンガを改造したマグラーの背面に、夥しいトゲトゲがあるのは厳然たる事実だ。
ネロンガの改造でなければ、つまりバラゴンのボディ流用でなければ誕生し得なかったであろう、背で奏でられる尖端の音律、さんざらめく波頭のリズム。しかしアンギラスの背中の針山からも、ある種の整然とした律動が聴こえてこよう。もしアンギラスを改造したマグラーが実現していたら、果たして成田はどのような楽律を奏でたことだろう。その音楽に思いを馳せ、マグラーにおける意匠・造型の締め括りとしたい。
身を震わせて体に被った土砂を徹除、岩をツメで引っ掻き、鼻息も荒くムラマツ・ハヤタを強襲。レッドキングのような強者に対しては臆して隠遁を決め込み、相手が弱者と見るや猛然と襲い掛かる卑怯者。ひと頃昔風に言えば、「ハイエナ野郎」。(尤も死肉やおこぼれに与るのは、ライオンなど他の肉食獣も同じで、またハイエナだってライオン同様に狩りをする) だがどこか憎めない、ややもすると滑稽な性格付けがされたマグラー。演者のキャラクターと相俟ってか、画面にはその性向が効果的に著われている。中に入っていたのは、泉梅ノ介だ。
泉が演じたウルトラ怪獣は、ラゴン(『ウルトラマン』第4話)とこのマグラーの、僅か2体を数えるばかりである。ウルトラマン怪獣の「顔役」である荒垣輝雄の16体や鈴木邦夫の10体などに比べれば、これは極めて少ない登板だ。尚、新番組『ウルトラマン』スタートに先駆けて、『ウルトラマン前夜祭 –ウルトラマン誕生- 』が放映されたが、その舞台に登場したアントラーは泉梅ノ介によるものであった。(『ウルトラマン』本編では、第7話のアントラーは荒垣輝雄) このとき泉は、アントラーのボディ部を後ろ前逆に装着するといった、頓狂な失態(?)を遣らかしている。果たしてそれは、意図としたものなのかどうか...。いずれにせよこのアントラーを勘定に入れても、泉怪獣は3体だけである。
怪獣はもちろん人間ではない。ところが怪獣を被っているのは、紛れもない人間だ。怪獣を演じるということは、即ちどこまで人間臭さを払拭できるかということであり、それがひとつの勝負どころとなってくる。何となれば、特殊な場合(たとえば『ウルトラQ』第15話のカネゴンなど)でもない限り、過分に擬人化された怪獣の所作こそ、作品世界を壊す誘因となりかねないのだから。間違ってもおどけてみせたり、剽げたりしてはならない。ところが泉は、そのタブーを恬として遣ってのけている。
いかにも時代劇の大部屋出身らしい、斬られ役気質の泉が演じる怪獣の動きには、人間臭が芬々だ。たとえばラゴンなんかは殊にそれが顕著で、スペシウム光線を放たれて崖から転落する寸前、それこそ悪役が斬られたときに見せる大見得を切っている。これにはさすがに、昭和当時、いくら幼少の砌とは言え、正直違和を覚えたものだ。マグラーについても、ラゴンほどあからさまではないが、やはり「人間」を感じてしまう。ともすれば画面から受けた印象で、臆病者という設定が後付けされたのでは?と疑いたくなるような程だ。四つん這いという形態が、マグラーをギリギリ「怪獣」に押し留めたのであろう。あれがもし、ラゴンのように二足立ちしていたら...。
しかしながら、それでも「どこか憎めない」愛想っぷりは、やはり泉梅ノ介という役者に根差している人触り所以であろうか。マグラーとラゴンの2体だけ。それはそれで許容の域内、享受して然るべき。鼻持ちならない厭味に聞こえるやも知れぬが、何はともあれケレン味に満ち満ちた人間臭い泉怪獣は、幸いなことに稀少なのだから。と言ってこのことが、怪獣役者としての泉に対する評価を害するものでは決してない。春秋の筆法を以て、褒めたり毀つたり。難詰・当てこすりの心算は毛頭無い。その逆。泉マグラーも泉ラゴンも、愛すべきウルトラ怪獣であることは間違いなく、「ん?」と引っ掛かりをもたらすところにアイデンティティーが息衝いているのだから。
レッドキングとピグモンは、「超」が附くほどの人気者。その後の活躍振りは、殊更ここで言うまでもない。シリーズを超越しての登場は、再三に渡る。またそれに附随する形で、多々良島の住人・チャンドラーも、唯一回きりだが再登場を果たし、宿敵・レッドキングとの死闘を展開した(『ウルトラマンパワード』第3話)。糅てて加えて、完膚無きまでに「脇固め」の役回りであったあのスフランでさえ、ジョンスン島での再出現を見ている(『ウルトラマン』第26話)。そもそもレッドキングが人気怪獣であったから、多々良島の住人たちは斯様な恩恵に与った訳だ。しかしマグラーだけは...悲しいかな、蚊帳の外に置かれたのである。
実はマグラーについては、『ウルトラマンパワード』(1995年)の第3話で、レッドキングやチャンドラー、そしてピグモンら「多々良島勢」とともに、“パワードマグラー”として登場する勘案があったそうだ。結果的にその実現は叶わなかったのだが。もし“パワードマグラー”なる新生マグラーが、平成の世に陽の目を見ていたら...。ハリウッド仕様の先鋭的容姿のマグラー。惜しむべきは、その未孵化だ。尚このほか、「マグラー再登場」という可能性を擁しながらも、そうは問屋が卸さなかった目ぼしい未登板例を書き加えておくと、『ウルトラマンメビウス』(2006年-2007年)第42話が挙げられる。この回では「レッドキングが多々良島に出現!」といったシチュエーションが描かれるが、やはりマグラーの登場は無かった。
だが「全身トゲトゲで四足歩行」といったフォルムを持つ地底怪獣マグラーは、それを「定型」とした観点からすれば、ある程度の姿かたちの変貌は有りこそすれ、新シリーズに見ることができよう。先ずは『ウルトラマンティガ』(1996年-1997年)第3話に登場した、岩石怪獣ガクマである。四つん這い形態の体躯を覆うブロック塊の連接は、岩石のような質感の外皮を形成。そして何よりも背面に屹立する尖りの条列は、原鉱状態における結晶状の水晶のようだ。更に出身地が、「久良々島」の地底ときてる。“原点回帰”を謳っていた平成の新シリーズ・『ウルトラマンティガ』のことだ。四つん這い怪獣のオーソドックスなスタイルを提唱したマグラー、ガクマがそれに向けたオマージュであったことは想像に難くない。トゲに施された鮮やかな色合いから鑑みて、ザンボラー(『ウルトラマン』第32話)からの再着想とも捉えられるが。いずれにせよ、見事なアレンジ・センスが光る傑作怪獣である。
次に、『ウルトラマンマックス』(2005年-2006年)第5・6話登場の、両棲怪獣サラマドンを挙げてみたい。この回は、人気者・レッドキングとピグモンが登場するエピソードとして、『マックス』スタート期を華々しく飾った。ピグモンを守る役目のサラマドンは、その役回りこそマグラーとは違いこそすれ、レッドキング・ピグモンと同じ島に棲息するということと、四つん這いで背中にトゲを有する出で立ちから、マックス版マグラーとして位置付けたい。またこの回には、チャンドラーからの再着想と思しき飛膜怪獣パラグラーなる怪獣が登場、「サラマドン=マグラー」をより強固に裏付ける傍証として掲出しておこう。
ガクマ、そしてサラマドン。「これがマグラー?」という反駁も無論あろう。しかし新時代のマグラーとして、両者とも一概には捨て難い刺激的な可能性をその内外部に滾らせている。この二大怪獣の現出を以ってすれば、再登場自体に恵まれなかったとは言え、何の何の、それを不遇と断じてしまうのは些か早計であろう。マグラーの精魂は、生きているのである。
而して多々良島勢で唯一匹、再来の好機を逸した格好のマグラー。しかし「大旱に雲霓を望む」こと実に42年、2008年12月、不意にそれは巡って来た。
「ウルトラ怪獣同士がバトル・ロワイヤルを繰り広げる!」といった、アーケード体裁のカードゲーム・『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』。この世界観と連動させたTVシリーズが『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』(2007年12月1日-2008年2月23日)であり、マグラーはその2作目・『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』の、何と何と第1話に登場する。
強者に対しては此れ徹底して交戦を極力回避、弱肉強食の生存競争を狡猾に渡り歩く性向のマグラーではあったが、しかし。本作が怪獣同士の戦いを題材としている以上、最早従来の立ち回りもこれまで。「弱きだけを挫く」指針を抛り棄てて、元・怯懦者のマグラーが立ち向かったのは、こちらも42年振りに復活を果たした古代怪獣ゴメス(初出:『ウルトラQ』第1話)だ。※〔本作に登場する怪獣たちは、原則的に“レイオニクス”なるいずれかの宇宙人に操られている設定である。ゴメスはガッツ星人(初出:『ウルトラセブン』第39話)の操作によってバトルに殉じているが、マグラーについては誰の手によるものなのか、劇中では特に明らかにされていない。〕
“惑星ハマー”に不時着したレイとヒュウガの眼前で、朦々たる土煙を巻き上げ、巨躯と巨躯を打付け合うマグラーとゴメス。生来が好戦的なゴメスに対して、“多々良島のハイエナ野郎”・マグラーは怖めず臆せず、獅子奮迅の命知らず振りを見せる。強敵相手に一旦は劣勢に陥るが、レイ擁するゴモラ(初出:『ウルトラマン』第26話)の参戦に際して、今度はその“怪獣殿下”に挑み掛かるという、無理・無茶・無謀・無鉄砲の嗚呼何たる哉!結局はゴモラの決め技・“超振動波”の餌食、黒水晶の如き身体髪膚は木っ端微塵に爆砕されるのだが...。向こう見ずこそ怪獣の本懐。42年前、多々良島で御目に掛かりたかったマグラーとは、実はこれだったのかも知れない。
ところで本シリーズより、怪獣のスーツについて、その四肢付け根部位に改善施術が試行されたと聞く。腕と脚が胴体と接合している部分は、つまり運動の為の要所であり、ここを柔軟化したという訳だ。これによって「動作がより潤滑になった」怪獣たちは、以前(『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』)にも増して恰も人間サマ同然に所作・躍動する事が可能となった。“レイオニクス・バトル”に殉ずる怪獣たちは、とても下等動物の挙措とは思えないほど敏捷に坐作進退、挙句プロレス技まで繰り出し、CGが描き出すゲーム世界さながらの奔放さを実現させたのである。
前作(『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』)共々、旧ファンからすればそのようなウルトラ怪獣世界からの逸脱・飛躍にあっては、「邪道」や「突飛」に類する様々な誹りもあるだろう。然し乍ら、昭和往時に学童書等で展開されたあの「夢の対決」の有り様は、果たしてこのようなものではなかったか?ブラウン管の向こうに目撃した怪獣たちについて、「もし・たら・れば」の更なる夢想を以って思い馳せた、昭和少年が頭ン中、脳漿の大洋。広き器を浩々と漲らせた水は、遂に零れ落ちたのである。多々良島のどの怪獣とも一戦交える事の無かったマグラーの、実は怪獣らしい一面。その顕現がまさに此処に在るのだ。
「昔、怪獣たちが初めて現われた頃、人類は知恵と勇気で彼らと戦っていた。つまり、君たちのお父さんやお母さんが、怪獣たちと戦っていた頃もあったのだ」 (劇場用作品『ウルトラマンZOFFY 』1984年 ゾフィーによる冒頭の台詞より)
右を向いても左を向いても怪獣だらけ。島の怪獣王座に君臨するレッドキングをはじめ、その王者に果敢にも立ち向かって散ったチャンドラー、人間に味方する小怪獣ピグモン、溶岩地帯でムラマツ・ハヤタを急襲したマグラー、ジャングルに繁茂し科特隊員らを襲った吸血の植物・スフラン。そう、油断ならぬ怪獣王国では、植物でさえ怪獣なのだ。この畳み掛けによって“ロスト・ワールド”は漸う形成され、「怪獣無法地帯」は完遂するのである。
もちろん登場する全ての怪獣が、「主役」の脚光を浴びるという訳にはいかない。チャンドラー・マグラー・スフランの3体が、賑々しい怪獣無法地帯を彩る「脇役」なのは明々白々だ。チャンドラーは、主役怪獣・レッドキングの強さを引き立てるために、そしてスフランは科特隊がピグモンと邂逅するシチュエーションのために、それぞれ用意された配役である。そしてマグラーはと言えば、科学特捜隊を意義付けるための、すなわち「人間の力」を示威するための膳立てであったと言えよう。何となればマグラーこそは、科特隊が己が兵力で初めて倒した巨大怪獣なのだから。(第7話でウルトラマンの危機を救ったのはムラマツだが、アントラーを倒した青い石の威力は、ノアの神の不思議な力に由来)
溶岩地帯を行くムラマツ・ハヤタの前に、突如地中からマグラーが出現、彼らの行く手を阻む。打ち震える巨躯は土砂を振り払い、漆黒の歯列を剥いて獰猛さを誇示、ツメ先で岩盤を引っ掻いて相手を威嚇。鼻息を噴き出し迫り来るマグラーに対し、携行ナパーム弾を手に身構えるハヤタ。「巨」対「小」の構図に、見るものは手に汗握る。緊張感漲る合成シーンが実に印象的だ。タイトロープがマックスに張り詰めたとき、ハヤタはナパームを投擲!大爆発!続けざまにムラマツがもう一発。思わぬ反撃を喰らって、すごすごと退くマグラー...
このようなシークエンスは、本戦(ウルトラマン VS レッドキング)を盛り立てる前哨戦として、作劇上重用されるのがセオリーだ。本エピソードはさながら「冒険活劇」のようなドラマ仕立てなのだから、作中における窮地の散在は尚更然るべきなのである。だがここでは、「人間が怪獣を倒す」というその意味に留意したい。この回の脚本の筆を執ったのは、『ウルトラマン』のチーフ・ライターである金城哲夫だ(上原正三との共著)。金城はこのシーンを、単に危機を見せるための「サービス」として箝げた訳ではない。そこには秘めた思いがあった筈だ。
「人間が怪獣を倒す」といったシチュエーションは、前作『ウルトラQ』の世界観を継承したドラマツルギーによるものとも捉えられよう。〔上記『ウルトラマンZOFFY』におけるゾフィーの台詞は、ヒーローの存在が当たり前となっていた公開当時(1984年)の目線から、1966年の『ウルトラQ』世界を説明するための見事な?方便であった〕 本邦初の怪獣映画『ゴジラ 』(1954年)公開から12年、「ヒーロー不在」は尚も日常の中で活きており、そこに人間たちが齷齪と立ち振る舞う立錐の余地はまだまだ残されていたのだ。実際マグラーのほかにも、空を飛び交うバルタン星人2代目(第16話)の数体や、弱点の背中を狙い撃ちされたケムラー(第21話)など、科特隊の超兵器の前に命を散らした怪獣は後を断たない。『Q』を継いだ『ウルトラマン』の世界でも、「出来得る限り人間が怪獣を倒す」という状況描写は、作劇上の一手法として極々普通に扱われていたのだ。
しかしそうであっても何故、ウルトラマンという超越ヒーローが存在するにも関わらず、科特隊、すなわち「人間」に花を持たせるような場面を、敢えてわざわざ描く必要があったのだろう?我らがヒーロー・ウルトラマンが、格好よく颯爽と怪獣を退治する。それこそが、番組の本意であったことは言を俟たない。では何故?どうやらそこら辺に、チーフ・ライターである金城の『ウルトラマン』に託した思いの丈、それを紐解く手掛かりが...
「われわれ科学特捜隊がどんなに頑張っても、結局敵を倒すのはいつもウルトラマンだ。僕がどんな新兵器を作っても、たいてい役に立たんじゃないか。いや、新兵器だけじゃない。われわれ科学特捜隊も、ウルトラマンさえいれば必要ないような気がするんだ」
これは『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」(脚本:金城哲夫)の劇中、平素ウルトラマンに助けられてばかりいる自分たち(科特隊)を不甲斐無く思い、その遣る瀬無い心情からイデの口を吐いて出た台詞である。そう、この文言でも歴としているが、超越ヒーローの存在とはすなわち、人類の「甘え」を誘発・増長させ、人間の牙を殺ぎ骨抜きにし得る危険性を孕んでいるということだ。「どうせウルトラマンが来てくれる」という強い依存心。それは取りも直さず、『ウルトラマン』という作品世界を根底から転覆させてしまう脅威でもあったのだ。
この「甘え」問題について最も敏感であり、その露呈を誰より気に掛けていたのが、作品の責を預かる金城であったことは言うまでもない。ともすれば「ウルトラマン=殺し屋代理」を軸に、殺伐とした作品になりかねないところを、それを巧みに糊塗し素晴らしいファンタジー世界に築き上げたのは、ほかならぬ彼の遺烈だ。だが番組終局の第37話に到り、金城は遂にこの難題に対して真っ向から向き合うのである。そう、この「甘え」問題に対する回答こそが、『ウルトラマン』という作品を結着づける命題でもあったのだ。「人事を尽くして天命を待つ」。これが逡巡の果てに辿り着いた、金城の答えである。
第37話山場。窮地に際し自らは何もせず、すっかりウルトラマンを頼り切るイデ。それを見たハヤタは変身を留めて、イデに全力を尽くすよう仕向ける。ピグモンの殉死も手伝って、ハヤタの叱咤でイデは奮起。ドラコを粉砕した後、遂にはウルトラマンと協力して本件の首謀・ジェロニモンを仕留めるのであった。「やったぞー!ジェロニモンはオレが倒したぞー!」とイデの歓声がこだまする。ここで体現されたのは、「人間が力の限りを尽くしたとき、ウルトラマンは現われる」ことの実践だ。イデが叫んだ「オレ」とはつまり、人類全体を指す。そしてこの「尽力と天命」は更に最終話「さらばウルトラマン」(脚本:金城哲夫)で、人類の「自立」へと窮まるのだ。
「地球の平和は人間の手でつかみ取ることに価値がある。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん」
強敵・ゼットンの前に頽れたウルトラマン。彼を迎えに、光の国から来たゾフィーの台詞だ。そして人類は...ウルトラマンに去られてしまった地球人は...............そう、ウルトラマンをも倒したゼットンを、新兵器で見事木っ端微塵に吹っ飛ばしたのは、ほかならぬ科学特捜隊、つまり「人間」であった。かくて地球人自らの手によって平和は守られ、人類は自我の下に立脚、「甘え」は止揚されたのだ。
科学特捜隊、すなわち人類が「自らの手で」初めて倒したマグラー。(尤もナパームを放ったハヤタを、純粋に「地球人」と位置付けるには、少なからず抵抗があろう。しかしその際の一挙手一投足及びナパーム弾という兵器は、明らかに「人間の力」である) その一撃は、第37話のジェロニモン撃破や最終話のゼットン粉砕へと繋がる行跡であり、同時に『ウルトラマン』という作品を形作る重要な光跡でもあるのだ。大いなる力(ウルトラマン)に守られていようと、それに甘んじることなく、我ら人類は自立せねばならない。そう、我らは...我らこそは地球に棲む「地球星人」なのだから。
どくろ怪獣レッドキング、有翼怪獣チャンドラー、友好珍獣ピグモン、怪奇植物スフラン、そして...多々良島怪獣勢の中でも取り分けてマグラーは、地底を棲み家とすることから「地底怪獣」と称されている。地底怪獣...。怪獣の別称として、これほど凡庸な肩書きは無い。おそらくは、「古代怪獣」や「宇宙怪獣」と並んで多用された常套句であろう。本項では、この「地底怪獣」という銘打ちに焦点を当ててみたい。
そも「怪獣」なるものは、出自が地球上であるのならば、多くは“地底怪獣”であり“海底(深海)怪獣”である筈だ。何故なら地中や海の底、もしくは砂漠や極地など、前人未踏の地であればあるほど、怪獣の棲み家としてこれほど適した場所は他に無いからである。それ以外に居を構えようものなら人間社会との搗ち合いは避けられず、そのような常時人目に触れている代物はもはや「怪獣」と呼ぶに値しない。「周知」と「怪しさ」は、相容れないものだ。このことについて松本人志は、自身の監督作品『大日本人 』(2007年)の中で、「存在しているものは“怪獣”ではなく“獣”である」と定義付けている。「怪獣」は怪しくてなんぼ、人びとに認知されていないところに本意があるのだから、人目につかぬところに隠れ潜んで然りなのだ。
さてそれでは『ウルトラマン』の中で、マグラーと同じ「地底怪獣」を幾つ挙げることができるだろう。これが意外なことに、第22話登場のテレスドンの該当を見るばかりである。しかし「地底に棲む」もしくは「地底から出現」という点に留意すれば、『ウルトラマン』に登場する怪獣の多くが、やはり「地底怪獣」に種別されると漸う知れるだろう。井戸の底で眠っていた透明怪獣ネロンガ(第3話)も、砂漠に巣食う磁力怪獣アントラー(第7話)も、工事現場の地中から出現したウラン怪獣ガボラ(第9話)も、ミイラ発掘現場の洞窟から甦ったミイラ怪獣ドドンゴ(第12話)も、みんなみんな「地底怪獣」という大きな括りに集約されるのである。“透明怪獣”だの“磁力怪獣”だの謂う体裁は、大本の「地底怪獣」を細分化した枝葉に過ぎない。そこはそれ、無論作り手側ないし出版社側の才量度量、加味・スパイス、「地底怪獣」の過剰並列を回避しようとした努力の賜物だ。
マグラーとテレスドン。“地底怪獣”という別名を、正式なものとして冠された怪獣の稀少さは、何も『ウルトラマン』に限ったことではない。昭和と平成の全シリーズを通じても、僅かに9種だけという、俄かには信じられない事実がある。ではマグラーとテレスドンを除いて、実際に他を全て列挙してみよう。パゴス(『ウルトラQ』第18話)、デットン(『帰ってきたウルトラマン』第3話)、グドン(『帰ってきたウルトラマン』第5・6話)、ギタギタンガ(尤もこれは“地底超獣”ではあるが 『ウルトラマンA』第29話)、タフギラン・タフギラス夫妻(『ザ☆ウルトラマン』第5話)、モゲドン(『ウルトラマンダイナ』第48話)、テールダス(『ウルトラマンコスモス』第37話)となる。40年以上の歴史を鑑みれば、この〔9〕という数字が示す寥々さに、正直驚愕の念を禁じ得ない。大きな属性としてはおそらく最多を誇る「地底怪獣」なれど、さて実際にそれを冠する怪獣はと言えば、そうそう居ないものなのである。
単なる「地底怪獣」に堕することのない地底怪獣たち。自分たちの生み出す怪獣に、あれこれパーソナリティを付与してみようと試みた、作り手側の活況たる作為の数々に感嘆景仰。対して、敢えて「地底怪獣」を名付けられた地底怪獣たち。「地底に棲む」こと以外の個性は如何に?地中に没せども、個性の衆生に没さぬものども。“地底怪獣”などという、ともすれば凡庸な銘打ちから、あれこれ喚起させられることがまた一興に思えるのだが...。
怪獣が人目を忍ぶ。この一見極々当然に思える棲息場所の限定にはしかし、人間側からの「異者排除」の心算が少なからず作用してはいまいか?目に触れては不味いもの、居ては都合の悪いもの、これらを「異者」としてよそへ追い遣ろうとする恣意傾向は、自然界の摂理であり、人間の本然、世の常である。人間にとって怪獣たちは、社会を乱す或いは乱しかねない不穏当な存在、すなわち怪しからぬ「異者」だ。それを考量に踏まえれば、怪獣自らが、好き好んで、わざわざ、むざむざと、「人目を忍んでいる」のでは決してないということが判ろう。忍ぶよりほかに道が無いのである。つまり得体の知れない怪獣は、その身の置き処を、人智及ばぬ地底や海底に委ねざるを得ないのだ。
人類の発生は、暗黒大陸・アフリカにあると言われている。温暖な気候で食物が豊富、棲息する上で好条件を満たす大地のそこここに、熱帯樹林からサバンナへと人間は次第に拡まっていった。やがてテリトリー争いに敗れた弱い集団が、徐々にヨーロッパなど寒冷な北方地域へ追い遣られ、より棲みづらい環境での生活を余儀なくされる。こういった「敗走」こそが人類という種の拡散・繁栄に望ましいことだったとされるが、果たしてその結果、悠久の時の流れの後にどういうことが起こったか?追い遣られた側、つまりヨーロッパ系白人種が「先進国」として優位に立ち、力で以ってアフリカを支配し植民地化してきたことは、史実が雄弁に物語っている。これを「逆襲」と因縁付ける心積もりはまるで無い。だが逆に、虐げられた「南方」(黒人種)側から征服者である「北方」(白人種)側に向けられた怨嗟・報復、またそれに対する更なる応酬などを観照すれば、「追い遣る」行為自体が絶えざる争いの連鎖を生むという因果応報性は、強ち無視できないだろう。
もちろん人間が争う原因はそれだけではない。肌の色や言語の違い、民族や文化、ナショナリズムで争う。宗教の教えで戦う。国境で諍い合う。格差で憎しみ合う等々...。とここで、世界紛争のあれやこれやを打つ心組みは厘毛も無い。いずれにせよひとつ思うことは、自分と「異なる」相手を「排除」しようとする意向が、押し並べて働いているということだ。
以上のような人間界における紛争の構図を、「人間対怪獣」に置換してみれば、地底に「棲まされている」マグラーたち地底怪獣が、自分たちを暗い土中へと追い遣った張本人、すなわち人類に対して敵意の牙を剥くことの動機付けになりはすまいか?無論斯様な「こじつけ」が、浅見であることは重々承知の上。しかしながら、当然の理の如く扱われる「怪獣が人間と敵対する」という無自覚でオートマティックな方便に、何やら薄ら寒さを覚えてならない。「怪獣」なる想像上の生き物には、人間の都合が自ずと影を落としているということを、「地底怪獣」という慣手段の重用から照射してみたかった次第である。「見えちゃうと何だから、そばに居ちゃうと何だから、ちょっと捌けててもらおう」 端的に言ってそれが、人間サマの事情なのだ。
地底怪獣“マグラー”の名の来由は、岩漿、つまりマグマからであろう。何となれば、地底のマグマが地表で固結した火成岩こそは、マグラーのゴツゴツとした武骨さに直結するから。明解である。
尚、昭和往時の児童書などでは「マグラ」とも表記されていた。「マグラー」と「マグラ」。長年に渡って双方の呼称が重用されてきたが、近年ではすっかり「マグラー」に落ち着いたようだ。また放映当時は、“マンモス怪獣”なる別称が与えられたりもした。これはおそらく、「古代」と「巨躯」から来ているものと思われる。
余談だが、スティーブン・キングの短編小説『人間圧搾機』を映画化した『マングラー 』なる作品が、1995年に公開された。呪いがかった業務用の巨大なリネン・プレス機に、人びとが圧し潰されるといった内容だ。物語のラスト、自ら移動し人間に襲い掛かるプレス機の様態に、怪獣のそれを見ることができよう。
ウルトラマンと相見えることの無かったマグラー。だが昭和当時に刊行された児童書や、駄菓子屋等で販売された5円引きブロマイドなどで、レッドキングとともにウルトラマンと対峙したスチールを記憶する人も多いのではなかろうか。我々“怪獣世代”の人間には、実に馴れ親しんだ数葉と言えよう。プレス向けに催された第3回特写会、通称“竜ヶ森撮影会”において撮られたもので、もちろん本編には無いシーンだ。もしマグラーが、ウルトラマンと戦っていたら?想像力を逞しゅうした昔日を、今だ胸に刻印させる活写である。
初期ウルトラ怪獣の造型を手がけた高山良策や開米栄三。そしてもうひとり、忘れてならないのは佐々木明だ。何しろウルトラマンとウルトラセブンという、“窮極”とも言うべき二大ヒーローの顔(マスク)と体(スーツ)を実際に形作ったのは、ほかならぬ彼なのだから。デザインを担当した成田亨の後輩(武蔵野美術大学)にあたる佐々木は、『ウルトラマン』において数体の怪獣の造型にも携わった。それでは、数少ない佐々木怪獣を以下に。
『ウルトラマン』第12話以降より放映された、いわゆる後期オープニングの影絵。これに登場する全身トゲトゲのまるで毛虫のような四つん這い怪獣の影絵こそは、成田亨のデザイン画をモチーフとしたマグラーではなかろうか。また、二足立ちするギザギザ怪獣のシルエットも出てくるが、それもやはり、第3回特写会における立ちポーズのマグラーではないかと推察するが、いかがだろう?前期オープニングに対して、後期のものには絵コンテなどの製作資料発見をみないので、無論憶測の域を出ないのだが。
実はバラゴンのボディ部を流用した改造怪獣は、パゴス・ネロンガ・ガボラとも、ゴジラ役者でお馴染みの中島春雄が演じている。そもそもが総本家のバラゴンでさえ、中島による操演であった。つまりバラゴンのスーツは、もはや中島の衣服同様であったと言えよう。唯一マグラーだけが、例外となる。何故か?慣れ親しんだであろう着衣に、持ち主が袖を通すのは当然の理だ。スケジュールの都合か、それとも別の事情が...。想像を掻き立てられる、泉梅ノ介の登板である。
マグラー出現の際に流れる楽曲は臨場感に溢れ、思わずぐっと力が入り気持も高揚する。危機に直面した画面の中のムラマツ・ハヤタに、恰も同調してしまうような優れたB.G.M.だ。この印象的な曲は、『ウルトラQ』第14話「東京氷河期」において、ペギラがビル街を破壊するシーンに使われたものと同じである。是非とも二つ場面を「聴き」比べてほしい。
無情な怪獣界を生き抜く、
マグラーのサバイバル処世訓
地底怪獣バラゴン四代目現わる!
マグラーが先か?ガボラが先か?
消え失せたネロンガ、そしてバラゴン
成田鉱脈発、さながら「蠢く鉱石」の様な
色沢美しい、「黒」と「赤」の生きた宝石
理性を凌駕して生理を侵襲する
“成田ブロック”が奏でる旋律に陶酔
アンギラス協奏曲、マグラー狂想曲
古めかしいからこそ、愛すべき人間臭さ
まるで「島八分」扱いだ
平成マグラーを模索
最後の多々良島勢、満を持して
暴虎馮河の地底怪獣、“姑息”を返上す
祝・科特隊の初殊勲!
人間だって怪獣を倒す
地球人よ、自分の脚で立て!
「地球怪獣」の多くは地底から来る
実は稀少な?“地底怪獣”
誰が何の為に「追い遣った」のか?