英国北部はスコットランド、ネス湖出身。約1億7千年前に棲息したとされる水陸両棲恐竜の生き残りで、頚周りにおける襟巻き状のヒレが外見上最も際立った特徴だ。15年前、ネス湖で単身消息を絶った探検隊の二階堂教授によって、卵あるいは幼体の状態で発見され、そのまま秘密裡に日本に持ち込まれたものと端倪される。自然環境がネス湖と近似した北山湖湖底にて成育。湖畔に居を構え、変装を以って中村博士として隠遁した教授によって、過剰な愛情を注がれつつ密かに飼養された。“ジラース”の呼称は、教授自身の命名。15年間に亘る体質変化で怪獣化、口から青白色の熱線を放射する特殊器官にあっては、最早恐竜のそれを凌駕・超越している。常住坐臥は湖底に潜み伏し、無闇矢鱈と人前に姿を晒すことはない。夜間の食餌摂取時に、教授による撒き餌と呼び立てにだけ呼応、湖面に頭部のみを現出させる。この仕込み・調教は徹底され、15年もの間人目を謀り果せた。だが夥多な撒き餌の余剰分が、湖に棲息する他の魚類の異常繁殖を助長、北山湖は多くの釣り人ら好事の的に、延いては科学特捜隊の調査対象となる。そして夜釣りに連れ立った科特隊のイデ隊員と『少年グラフ』の久保記者によって、その存在が漸う明るみに。一旦はまた湖底に隠れ果せるものの、心無い釣り人が撒布したカーバイドに苦しみ水面に浮上、遂に巨大な体躯全容を出現させる。上陸後は自制を失い狂乱・暴走、制止のため駆け寄った育ての親・二階堂教授さえ撥ね飛ばした。(教授はこれが元で後に死亡) 進撃を食い止めようとするウルトラマンに対峙、自ら抛った岩石を白熱光線で粉砕して見せる程の知能振りを覗かせる。力技と光線技の応酬後、自慢の襟巻きを毟り取られ憤然と嚇怒。マタドール宜しくウルトラマンがムレタの如く振り翳す己が襟巻きに向かって、さながら闘牛の牛のように突進を繰り返す。これを尽く躱され、体勢を改め突っ込んだところを、擦れ違いざま一閃の手刀(“ウルトラ霞斬り”)で急所を衝かれ、吐血の末果てた。絶命後のジラースには捥ぎ取られた襟巻きが掛けられ、致命傷を負いながらもその亡骸に躙り寄った教授の死を以って事件は終息する。
その見目は「襟巻きゴジラ」。委曲尽くしは不要、端的に言い表せばそれがジラースの正体である。
一目瞭然。「ゴジラに襟巻きを付けただけ」なのは、火を見るが如し。開き直りの極地か。真面に相対すれば、大きな襟巻きが、成る程ゴジラをある程度は隠し果せていよう。だがこれがひとたび側面を向けば、昭和の怪獣王が描く威丈高な稜線は燦然と光を放つ。また湖面より顔を突き出した際、過分に水を吸収した襟巻きはへたり蹲い、最早そのかんばせは...。
等しく東宝怪獣の着ぐるみを流用したものに、例えばバラゴン(『フランケンシュタイン対地底怪獣』1965年)のボディ・スーツを、パゴス(『ウルトラQ』第18話)・ネロンガ(『ウルトラマン』第3話)・マグラー(同第8話)・ガボラ(同第9話)へと次々に重転用した実例がある。このケースなどは、そのリサイクルの過度さにつけて、ファンの間ではもう先から浸潤・膾炙されているところだ。またジラース同様にゴジラの着ぐるみをそっくり流用した先蹤として、『ウルトラQ』のゴメス(第1話)が挙げられる。このゴメスの場合なんかも、着ぐるみ使い回しの類例としてその認知度は高い。
30分枠番組とは言え、週一1本というハイペースで怪獣物(特撮物)を製作しなくてはならない繁忙さ。毎回登場する新怪獣の着ぐるみについて、新調する時間的猶予と、そしてそれを賄うに事足りる潤沢な資金繰り、これらが逼迫・困窮していたことは想像に難くない。よって自社発の怪獣は言うまでもなく、余所から使い古したものを借り受けて改造を施すこと自体は、当時であってみれば珍稀なことでは決して無かった。
“使い回し怪獣”...そう言ってしまえば身も蓋も無いが。それでも元となった母体怪獣のイメージ払拭のため、改造前の姿を覆い隠そうとした工夫案出・奇想捻出のあれやこれやなどは、これはもう円谷美術陣のお家芸。その苦闘振りたるや、前掲の“バラゴン系列怪獣”やゴメスらなどお歴々の面々が達弁に物語っているではないか。「どこかでもう見た怪獣」。それを許さないスピリットこそは、美術スタッフの中核を成す二人の前衛美術家、即ち成田亨と高山良策の発源であり、延いては円谷プロダクション全体の指針でもあった。
だがしかし。ことジラースに到って、この理念・教条はどうであったか。「やっつけ仕事」若しくは「急場凌ぎ」などと言ったら、それはそれで語弊も有ろう。が、それこそ「襟巻きを付けて黄色をまぶしただけ」で、あの銀幕の怪獣王・ゴジラは隠れようもなく、その威風は依然顕在のままだ。“着ぐるみ使い回し怪獣”としてジラースが名を馳せている所以は、“バラゴン系列怪獣”のように再流用頻度によるものでは当然なく、またゴメスのように母体であるゴジラを隠蔽してのけた装飾術によるものでもない。そう説諭を俟たず、ジラースを斯様なスターダムに伸し上げた主因は、その姿があからさまなゴジラであったことにほかならないのだ。では何故に、このエリ巻き恐竜についてはそうだったのか?「どこかでもう見た怪獣」を許してしまったのか?
ジラースのように、着ぐるみの基盤を成している先代怪獣の姿そのものが、こうまで明々白々に露出してしまった例は窮めて稀有だ。それこそ特別な設定(2代目や再登場など)を付されていない限りは、なかなか類例を見ない。例えばレッドキング(『ウルトラマン』第8話)の頭部を挿げ換えてボディ部をそのまま転用したアボラス(同第19話)は、それでも体色を緑色に塗り替えることで、「まだ見たこともない怪獣」の現出に成功した適例と言えるだろう。容赦なく差し迫る時間と心許無い財布という二重の枷に足掻きながら、如何にして魅力ある怪獣を発信し続け得るか。一方ならぬ労苦の結晶こそがつまりパゴスやゴメス、アボラスなのであって、これによってテレビの前の子どもらは、毎週毎週「まだ見たこともない怪獣」との遭遇に与っていたのである。
であるからこそ。ジラースの如き“襟巻きゴジラ”が湖底より姿を顕わしたとき、列島の唖然っぷりたるや如何なものであったろうか。糅てて加えて、ジラースをゴジラならぬジラースならしめている唯一アイデンティティ、即ち“ご自慢の”襟巻きでさえ、有ろうことかウルトラマンによって毟り取られてしまうといった始末。これを少しの驚嘆も持たずに平然と迎え入れた昭和少年が、果たして往時における本邦のお茶の間にどれだけ座していたことであろうか。同瞬間一斉の「あっ!ゴジラだ!」。その大合唱の様が、推して測れるというもの。
「ゴジラを隠せなかった」と言うよりは、意図的に「ゴジラを隠さなかった」。それがつまり、“襟巻きゴジラ”の正体ではなかったか。ボクシング漫画の金字塔・『あしたのジョー』(梶原一騎・作、ちばてつや・画)では、こんな件りが描かれる。主人公・矢吹丈が、東洋タイトル戦を前に減量に苦しみ何とかこれを克服。しかし対戦相手である東洋チャンピオン・金龍飛(韓国)が彼の母国の戦争で体験した絶対的飢餓状態を知るにつけ、丈は自身の減量苦などは到底敵わないものだと思い込んでしまう。試合本番中でもその思いは消えず、大いに精彩を欠くという為体だ。そんなとき丈の脳裡を掠めたのは、かつて命を賭してリングに上がり、丈とグローブを交えた今は亡き力石徹。彼もまた減量のために飢え渇き、且つ丈自身がその力石と死闘を繰り広げたことに思い到る。何も飢餓が絶対ではない。そうと気付けば、鼓舞された闘志は燃え盛る一方だ。対戦相手の突然の心境変化に、チャンピオン・金は動揺を隠せない。そんな金に、丈は言い放つ。「力石は喰えなかったんじゃねぇ、喰わなかったんだぁっ!」と。......話しが大きく脱線、些か寄り道が過ぎたようだが。ともあれ。「○○できなかった」という結果的成り行きよりも、敢えて「○○しなかった」という企図・計略には、決然たる果断の含みが有るようだ。
着ぐるみの使い回しを拒否し、怪獣デザインをゼロから起こす。これを旨に、また円谷側への条件に掲げ、脆弱だった美術スタッフの補強援軍として、『ウルトラQ』の中途から参画した成田亨。だが先の条件は半ば反故、『ウルトラマン』第1クールにおける着ぐるみ再利用怪獣の頻出を敷衍すれば、その惨状たるやお分かり戴けよう。
如何に製作サイドの台所事情が窮していたとしても、このようなリサイクル作業への加担が、成田にとって本意であった筈がない。『ウルトラQ』のセミ人間(第16話)からバルタン星人(『ウルトラマン』第2話)への改造を皮切りに、ネロンガ(第3話)・ラゴン(第4話)・ゲスラ(第6話)・チャンドラー(第8話)・ピグモン(第8話)・マグラー(第8話)・ガボラ(第9話)と、さも当たり前のように怪獣転用は綿々と続いた。そして第10話登場のジラースもまた、東宝のゴジラを“使う”ことが決定。新シリーズと謳いながらも『ウルトラマン』ではこれで9体目の再生利用、決して穏やかではなかった成田の胸中が偲ばれるというものだ。(青森県立美術館所蔵の成田の筆によるジラースの図画は、1966年という製作時期から鑑みて、これがおそらくは着ぐるみ改造指示を意図としたデザイン画であったと見て、まず間違いないだろう)
そのように不本意な創作活動に従事させられる前衛美術家が、円谷へ衝き付けた反骨の作意こそがジラースではなかったか。「ゴジラに襟巻きを付けるだけ」という、文字通り“取って付けた”ようなやっつけによる抗議意思の示威。
だが一方で円谷側には、「ウルトラマンがあのゴジラと戦う!」または「銀幕の怪獣王・ゴジラがテレビに!」というような、なるほどサービスの腹積もりがあったのかも知れない。なれば「極力ゴジラを隠さないように」という註文付けも、可能性として充分現実味を帯びてくる。
反骨の結果か。またはサービス故の誂えか。いずれにせよ肝は“敢えて”。そう「敢えてゴジラを隠そうとしなかった」ところに、このエリ巻き恐竜の本懐が有るように思えてならないのだが、いかがだろう?
さてそれでは、ジラースの着ぐるみが実際にはどのように製作されたか。その詳細について触れてみよう。冒頭「委曲尽くしは不要」などと宣巻いたが、「ゴジラに襟巻き」のひと言で済まされるほど、どうやら事は単純ではないようだ。
先ずひと口に「ゴジラの着ぐるみ」と言っても、ジラース用に東宝から借り出されたものは、ある作品で使用された丸々ひとつのゴジラという訳ではなかった。それは胴体と頭部が各々別作品のために作られたスーツとマスクであり、それらを繋ぎ合わせたものが、ジラースの基盤を成しているのだ。具体的には、胴体は『モスラ対ゴジラ』(1964年)での使用となった所謂“モスゴジ”版、そして頭部は『怪獣大戦争』(1965年)で新調された“大戦争ゴジラ”版ということになる。
「モスゴジの胴体+大戦争ゴジラの頭部」。謂わば“変り種”、変則的なゴジラ。何故そのような、フランケンシュタイン的施術を経なければならなかったのか?これには諸説が有るものの、ここで殊更ゴジラ・スーツの変遷について詳述することはあまり本意ではないので、委細や真偽の程に関しては他のサイト等を参照していただきたい。ただジラースの着ぐるみを略解する上で、必要最低限な事象なり端倪なりは、左欄外の場外ファイトで掻い摘んでおこう。
而して複雑怪奇な紆曲を辿って来た着ぐるみには、ゴジラ色ならぬ“ジラース色”が纏わされた。これがまた啻に、「黒色のゴジラの随所に黄色」という訳にはゆかない。
一見して視線を奪うのは成る程矢張り、額や襟巻き、そして背ビレや胸部及び腹部に置かれた鮮烈なイエローであろう。この「突飛」とも取られがちな黄色が、古代の爬虫類つまり恐竜として設定されたジラースの身体髪膚にあっては、殊の外よく映えること馴染むこと。尤もこの黄の着色については、円谷初のテレビ用カラー作品とあって、フィルムへの定着と見端の良さを狙った試行錯誤の結果であった。他にもネロンガ(第3話)の背面やアントラー(第7話)の腹部などにおける黄が、同じ理由に因るものだ。そのような画面上の目立ちという都合があったにせよ、それでも眉間を左右に分かつデルタ、襟巻きを帆立てる支柱、背ビレひとつびとつの稜線、そして体躯ほぼ前面と、これらイエローの配色は実に適所である。それはまた、毒を持った生物が帯びる危険色としても発色しよう。
だが何よりも、このジラースを水陸両棲生物ならしめているのは、“苔生し”の如き緑色の仄かな“塗し(まぶし)”ではなかろうか。襟巻きと頭部、そして四肢に、飽くまでも“ほんのり”と。過剰な結節のテクスチャーで鬩ぎ合う表皮をして、肌理の間隙を縫って遠慮がちに発光せしむるモス・グリーン。実に繊細で、ややもすれば消えてしまいそうな灯し。しかしそれは、深山幽谷の霊妙なる湖にひっそりと息衝く住人を、確たる存在として、或いは湖底に或いは汀に凛と佇ませている。この北山湖の主を包む在るか無きかの緑色発光は、さながら世俗を厭い隔世にある僧侶の纏いし苔衣といったところ。その茫とした苔茵が、先に述べたように水陸両棲といった生態的特徴を現出。更には幾多の風雪にとともにあったであろう永の時節さえ顕現させ、遥か悠久の時の向こうに息衝いた古代の住人の姿を、斯くも詩情豊かに完遂させているのである。
「黒き恐怖」の体現者であったゴジラを、斯様に変幻してみせた色彩マジックの見事。東宝特殊美術部畏るべし。なればジラースは毬藻、阿寒湖が実によく似合うと思うのだが...。
1984年。捲土重来、後肢二足立ちで砂漠を疾駆するエリマキトカゲがTVCMに登場、人びとの注視の目を惹いた。その何とも頓狂で愛らしい嬌態は忽ち巷説を席捲し、「エリマキトカゲ・ブーム」なる一大ムーヴメントが勃興。それまで日本人に馴染みの薄かったこのオセアニア産の樹上爬虫類が、俄かに脚光を浴びることとなる。またそれは様々なビジネスの種ともなり、バブルで活況していた往時の市場を更に賑わせた。
無論この三菱自動車「ミラージュ」のTVCM以前から、エリマキトカゲはオーストラリアやパプア・ニューギニアに棲息・分布が確認されていた歴たる既知生物で、その当節に発見された新種などではない。また幼少の頃より動物図鑑の類いに慣れ親しんだ者であれば、このような珍種扱いの持て囃しよう、そして世間の狂奔振りに対しては、「何を今さら」というシラケがあったのも確かだ。と、まあ前置きはさておき。第9話のガボラに続き、奇しくも2週に亘って登場した“襟巻き怪獣”。ガボラの方は取り敢えず置くとして、特段の吟味をするまでもなく、ジラースのモチーフは前述のエリマキトカゲである。
しかし何となれば、その名も「エリ巻“恐竜”」。襟巻きを持った恐竜として、トリケラトプスやスティラコサウルスなどの角竜が先ず思い浮かぶだろう。尤もこれらの襟巻きは分厚く堅牢なイメージがあるので、襞状でコウモリ傘のように肉薄なジラースのものとはかけ離れている。またスピルバーグ監督の『ジュラシック・パーク』(1993年)では、ディロフォサウルスがまさにジラースの如き襞状襟巻きを持った恐竜として登場したが、本来それは二又の肉冠に過ぎず、映画での描写は単に脚色であったということだ。したがって“エリ巻恐竜”の正体はエリマキトカゲであって、先史時代の“襟巻き付き恐竜”でないと断じて差し支え無かろう。
現代でこそ“珍稀”とされる、生物における襟巻き状が如きの附帯。それでも「支骨に膜」といった構造は、たとえば魚類の鰭や両棲類の水掻き、そしてコウモリの飛膜などに見受けられる。これが有史以前の恐竜時代にあっては、その有り様も千変万化、バラエティの程はおよそ想像の域を凌駕していたことであろう。前掲トリケラトプスの楯のようなフリル然り、ディメトロドンやエダホサウルスの帆掛け然り、そして古代より今尚現生するトビトカゲの飛膜然り...。(トビトカゲの中には、何と頭部下方の襞を扇子状に開閉してディスプレイするものも!嗚呼、折り畳み式ジラース!?)
種々雑多、絢爛豪華。変種・異種・珍種の毒々しさが跋扈。多種多様な“襞”の栄華で、妖しく活気づいた原始生命界。なればイエローの支柱にモス・グリーンの膜といった、ジラースの如き襟巻きにおける明暗調子の対比甚だしきは、古代の毒気として至極真っ当なのだ。最早それは「ゴジラに襟巻き」というキャッチーのあざとさを超越し、ジラースを古代の住人ならしめているのである。げにまっこと傑出したるは、取りも直さず「襟巻きを付ける」といった、安直が故に優れたアイデアなのだ。
1965年。『怪獣大戦争』におけるゴジラの「シェーッ!」こそは、怪獣のテレビ時代到来を告げる狼煙であった。赤塚不二夫のギャグマンガ・『おそ松くん』に登場した“イヤミ”なるキャラクター。彼がその叫び声とともに取る奇態なポーズは往時の流行を席捲、これを銀幕の怪獣王が準える意趣には、子どもへの迎合の含みが少なからず有ったと言えるだろう。それは詰まる所、「これからは映画だけではなく、テレビにも打って出る、いや打って出ねばなるまい」といった、それこそ生存拡大を賭した怪獣の臍固めであったのだ。
そのゴジラを初作(1954年)より演じ続けてきたのが中島春雄であり、第6作目にあたる『怪獣大戦争』のゴジラも、無論彼の操演に依るもの。実は前掲ゴジラの「シェーッ!」こそは、中島自身のアイデアだったとか。「社会諷刺を採り入れたかった」と述懐しているが、意図とした当て擦りの作用はさておき、怪獣の極めて“人なる”所作が当時の子どもらを仰天させたことは間違いない。
初作のゴジラを演じるにあたり、上野動物園に通い詰めた中島。曰く「脇を締め、爪先を蹴り上げて決して足の裏を見せぬ」。この独特な歩行スタイルは、研鑽の末に彼が辿り着いた答えであった。そのように努めて“非人間”を心掛けた中島の、「敢えて」とも言うべきゴジラの擬人化。そこには「怪獣をもっと身近なものに」という、彼の切実な願意があったのかも知れない。そして果たせるかなこの「シェーッ!」が、怪獣のテレビ進出の素地と成り得たかどうかはまあ置くとして、兎にも角にも1966年1月2日、本邦テレビ分野の嚆矢となる怪獣たちが、ブラウン管を通してお茶の間に登場したのである。
「『モスラ対ゴジラ』(1964年)用ゴジラの胴体+『怪獣大戦争』(1965年)用ゴジラの頭部」。既に述べたようにジラースの着ぐるみの基盤を成すのは、そのような変則的継ぎ接ぎに依るゴジラ・スーツだ。『ゴジラの逆襲』(1955年)以降、演者本人(中島)達ての希望でオーダーメイド仕様に誂えられたゴジラのスーツ。『モスラ対ゴジラ』の所謂“モスゴジ”においても当然この約定は履行されているので、爾後如何なる流用があったにせよ、その寸法とフィット感は依然中島のものとして揺るぐものではない。着古された衣は、主人の袖通しを恋焦がれ待ち続けた。なればモスゴジ・ボディをそのまま継承したジラース、その着衣主としての中島起用は願ったり叶ったり、はたまた主従における相思相愛の成就とも受け取れようか。
怪獣のテレビ進出を見越した擬人所為への試み。そしてその皮肉と骨髄の間柄が、実は修羅場を共にした戦友関係ないし蜜月の仲であったこと。この二点を以ってして、ジラースの余りにも人間的な立ち居振る舞いが腑に落ちるというもの。その活たる躍動は水を得た魚の如し、さながら油を点されたマシーンの駆動を見るようだ。
ウルトラマンとの技較べでは知能っぷりをひけらかし、自慢の襟巻きを捥ぎ取られて猛然と嚇怒。マタドール宜しく身構えるウルトラマンに対し己自身は牛に堕し、前後の見境無く突っ込む浅墓さ。突進を尽く躱されては、一旦改まって神妙な面持ちに。そして剣戟に見る瞬間決戦の交錯と。これら一連の挙措を潤滑ならしめているものは、“怪獣役者”の肉体を迸る血潮にほかならない。
勿論脚本家(金城哲夫)や監督(満田穧)に依る、「先ずは西部劇風に」や「じゃあ次は闘牛風に」、そして「最後は時代劇風に」といった、意向なり演出指示なりも有ったのだろう。しかし“特撮の神様”・円谷英二に対して、自身の演出プラン、即ちゴジラの「シェーッ!」を進言し採択させた中島春雄の役者的意気込み、延いては作品の色を決定付けてしまうようなヘゲモニーを惟たとき、これらのあざとい○○風が、一概に演出陣だけからの発源であったとは思えない。何しろ“ゴジラ役者”。我々が目撃した北山湖の住人、その身体髪膚・一挙手一投足には、中島の心・技・体が漲っているのだから。
“襟巻き付きゴジラ”。この窮めてあざとく且つキャッチーな容貌で、「抜け目無く」と言うよりは、「ちゃっかりと」人気者に収まり足り得たジラース。無論ポピュラリティーの度合いからすれば、カネゴン(『ウルトラQ』第15話)やバルタン星人(『ウルトラマン』第2話)などの、ファンならずとも誰もが知っているような“超”人気者に敵う筈も無い。それでもある一時期にウルトラに執心した者、或いは多少なりともウルトラを齧った者を対象にした場合、縦し仮令それがヘヴィーなファンでなくとも、このエリ巻き恐竜における認知の普及率は高いと言えるだろう。それこそ“昭和回帰”の傾向にある昨今の趨勢にあっては、復活怪獣候補として白羽の矢が立っても決して可笑しくない。
しかし昭和・平成を通じてジラースのリバイバルは、本線のシリーズにおいて実現を見ることが無かった。唯一の再登板例としては昭和47年、幼児向けの帯枠番組・『おはよう!こどもショー』内の一コーナーであった『レッドマン』での出演を挙げるばかりだ。ここでのジラースの出番は、全138話中10回を数える。
特撮シーンは殆んど無く、それこそ『ウルトラファイト』の“怪獣プロレス”的作風を後継したような『レッドマン』。使用されたジラースの着ぐるみはアトラクション用に製作されたものであり、他に登場したバルタン星人やペギラ同様に、本編シリーズの劇中で使われたものではない。また当時のアトラクション用スーツが尽くそうであったように、造りは到って安普請、よって特有の“へたり”や“くたびれ”の甚だしきは、目を覆いたくなるような惨状であった。“ご自慢”である筈の襟巻きは申し訳程度に添えられており、いい加減な顔の造作にゴジラのかんばせは木っ端微塵、ものの見事に雲消霧散している。何故か白斑模様を付されたペギラと並んで、もはやそれは遊戯施設などにおける客寄せ用縫いぐるみの域を出るものでなく、子ども騙しの面相には怪獣としての端厳など一欠けらも無い。(とは言えこのような安手の怪獣たちが、当時のブームに肖った『レッドマン』の人気っぷりを、凡そ邪魔するものでもなかったのだが)
では何故、ある程度の認知と人気を勝ち得たジラースの再登場が、斯様にも惨憺たる昭和の『レッドマン』版だけであったのか。懐古を希求される平成の世に、復活し得ないのか。そこで当然行き当たるのは、「ジラースが結局は東宝のゴジラである」といった、所謂“オトナの事情”であろう。
著作権・版権・肖像権、つまりはcopyright。東宝産のゴジラは勿論東宝の所有物であって、ゴジラに掛かる権利の遍くは押し並べて東宝に帰属するものだ。何の断わりも無く余所様がこれを持ち出し、ゴジラをモスラをキングギドラを、何喰わぬ顔でしれっと自社作に出演させるという訳にはゆかぬ。そんなことをすれば法令に抵触、著作権の侵害となろう。殊に偽物やら模倣品やら擬い物の横行で、ライセンスの主張が強く叫ばれる世界的風潮にあってみれば、いっかな子ども向けに登場する怪獣と言えども、決して対岸の火事・蚊帳の外ではない。
ジラースを何らかの形で再び登用するとなると、その母体であるゴジラの示現はこれはもう必定だ。逆を言えば、ゴジラが無ければ、先ずはゴジラを作らねば、ジラース自体が成り立たぬということ。そこに七面倒臭いコピーライトのあれやこれやが発生・派生するのは至当、ジラース再生の前に厳然と立ち塞がる障壁となるのである。これがつまり、人気怪獣を不遇に貶めている誘因であろう。(因みに等しくゴジラ・スーツを改造したゴメスについては、過剰な装飾による“ゴジラ隠し”が故か、著作権侵犯に引っ掛かること無く、2008年の『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』で再登場を果たしている)
『ウルトラマン』のジラースはもちろんのこと、『レッドマン』版ジラースも、こういった“オトナの事情”がまだ緩く、左程煩くなかった時代性が産み得た、ある意味奇蹟的な特異例ではなかったか。尤も『レッドマン』版について、あれがゴジラを煥発させるかは甚だ疑問だが。兎も角も我ら愛すべきジラースは、その魅力の淵源である「ゴジラに襟巻き」という強烈な武器を纏ったが故に、逆に二度と陽の目に与れないというディレンマに陥溺しているのだ。
ジラースは、イギリス北部スコットランドのネス湖に出自を置く恐竜で、無類の古生物愛好家・二階堂教授によって日本に持ち込まれたと設定付けされている。水陸両棲であるこの恐竜の生き残りは、爾来北山湖で人目を忍んで飼育された。そこで先ず、ジラースが怪獣ではなく“恐竜”であることについて考察してみたい。
兎に角“怪獣”が基本鉄則のウルトラ。特殊な場合でも無い限りは、恐竜が登場に与かるなど以っての外、勿論「怪獣と恐竜の混同」などは極力避けられた。このように“怪獣”は、古代生物とは一線を画す截然たる存在として、意識的に今現在も描かれ続けている。とは言えしかし一方で、ジラースのようにその至上方針の浸透が不充分であったと思わざるを得ない、“恐竜的怪獣”なる幾つかの類例が有るのもまた事実だ。
官学台頭の当世でこそ、「怪獣と恐竜は非なるもの」というのが、老若問わず誰もが持つ共通認識。縦し怪獣物語に恐竜が登場するケースであっても、「恐竜は恐竜」、そして「怪獣は怪獣」といったように、それは其処、きちんと峻別・棲み分けして描かれている。科学的考証上、両者が混濁してしまうようなことは決して無い。言わずもがな、斯様な一緒くた・同一視が、優れた空想物語を陳腐ならしめてしまうからだ。
従って“恐竜的怪獣”の現出華やかなりしは、まだ胡散臭さが活況していた時期、ウルトラで言えば昭和41年の創成期においてということになろう。『ウルトラQ』のゴメスやリトラ(ともに第1話)、そして『ウルトラマン』ではジラースのほかゴモラ(第26・27話)が、「怪獣?それとも恐竜?」の部類に相当する。
これら古代怪獣はそれぞれ、“ゴメテウス”・“リトラリア”・“ゴモラザウルス”などといった、至極尤もらしい学名を附された。それがまた古代生物っぽさ・恐竜臭さを芬々と放ち、「怪獣=恐竜」というような、昭和風如何わしさに彩られた印象付けに加担しているのである。
またシリーズ復活の先陣を切った『帰ってきたウルトラマン』でも、この曖昧種の頻出が見られた。創生期と再生期。往時の円谷の逡巡振りを端的に象徴しているようで、実に興味深い。
だがそうは言っても、これら昭和40年代の胡散臭さ・怪しさを、ここで邪揄・笑殺するものでもない。むしろその逆。昨今における行き過ぎた科学的裏打ちの趨向には正直辟易、突飛この上無い発案のあれやこれやの埋没・覆甕を惜しむものである。[例えば、フランケンシュタインの怪物と地底怪獣を戦わせるなどという暴挙!(『フランケンシュタイン対地底怪獣』1965年 東宝) 今の世であってみれば、縦し誰かしらそれを思い付いたとしても、斯様な奇矯は噯に出すことさえ憚られ、企画壇上に上ることは決して無いだろう]
何となれば、“襟巻き付きゴジラ”。こういった心掻き毟られるエキサイティングな“恐竜的怪獣”を産み得たのは、取りも直さず昭和40年代という、まだ成熟途上にあった時代性が故である。その活々たる胡散臭さの発源は「まだ科学に侵されていない未踏の潤沢」であり、「未だ窮明を見ない“謎”は、如何様にも着地出来得る」とした希望的観測にほかならない。その未開地への冒険的野心が、見るものをして血を湧かせ肉を舞踊させていたのである。
ネス湖発、日本育ちの恐竜。こういった物語案出を後押ししたのは言うまでもなく、“日本版ネッシー”が昭和少年らの琴線を揺るがす恰好な素材であったということだ。畢竟それは、話題性とインパクトを当て込んだ算盤弾きに帰結しよう。
しかし一概にこれを、「見世物興行主が思い巡らす胸算用」と断じてしまうのは早計である。何故なら「湖に(恐)竜が棲む」という題材こそは、そもそも脚本を手がけた金城哲夫が好んでよく用いたモチーフであり、その熱情は「ネッシーからの着想」を兎や角云う域外で沸騰しているように思えるからだ。
作家・金城を駆り立てる創作衝動としての「湖と竜」。傍証を並べ立てるならば、例えば『ウルトラマン』第1話におけるベムラーと竜ヶ森湖、そして『ウルトラセブン』第3話のエレキングと吾妻湖。また宇宙から弓ヶ岳の熊谷ダム貯水湖(結果的には干上がってしまい、とても「満々と水を湛えた場所」などとは言えないのだが)に落下して来たガラダマ・モンスター、即ちガラモン(『ウルトラQ』第13話)なんかも、金城が描いた「湖と竜」の早い時期における顕われとして挙例できよう。
このような“湖所縁の怪獣”群の中にあって、たまたまジラースについては、「ネス湖のネッシー」を都合好く当て嵌めただけのこと。尤もベムラーやエレキング、そしてガラモンと、これら金城産の主要三大湖由縁怪獣は、みな“宇宙怪獣”と仮想されている。なれば厳密には、「湖と“宇宙”竜」こそが金城の拘泥った主題と言えるだろう。(湖に縁は無いが、『ウルトラセブン』第11話の“宇宙竜”ナースも、こうした金城の固執を体現するものだ) そういった「湖と宇宙竜」という組み合わせに心奪われる一方で、「ひとつ地球出身の怪獣(竜)にも湖を絡ませてみよう」とした試行が、或いはジラースではなかったか。
なれば「ネス湖のネッシー」なる方便は、“空想科学特撮シリーズ”の冠題を声高に謳い上げる為に、折好く引っ張り出された科学的考証の一体面に過ぎない。併わせて金城の洋物ホラー嗜好が、外国産怪獣(竜)の受け入れを容易にしたことも、「ネス湖出身」怪獣(竜)を誕生せしめた一因であろう。
劇中モンスター博士は、地下研究室の壁面に描かれた下手くそな図画を説示して、「ディプロドクス」などと呼称している。四足歩行型の竜脚類であるディプロドクスとは、おおよそ似ても似つかぬその凄まじき稚拙絵。これが一体どの恐竜の積もりなのかは、全く以って不明だ。また昭和40年代当時に“ネス湖の恐竜”として想定された有力種は、首長竜のプレシオサウルスであったと記憶している。四足による立脚スタイルのディプロドクスとは異なった、オールのような四肢鰭スタイルこそがネッシーの姿であると、そのように一般的には広く膾炙されていた筈だ。
プレシオサウルス、ディプロドクス、そして何だか分からない下手くそな恐竜と。こういったいい加減なごた混ぜもまた、「ネッシーの正確な姿などどうでもいい」とした金城の無頓着を裏打ちするものである。そして「湖と竜」という創作の動機付けが、「ネス湖のネッシー」ではなく、何か別に有ったということを端無くも語っているのだ。
金城が固執する「湖と竜」。ではこのコンビネーションに惹かれる要因、着想の源泉は、さて何処に湧いているものやら?
これに思いを巡らせたとき、上層階級からの沈降文化を綯い交ぜにし、常民文化との融合を遂げ前代より保持されて来た民間伝承、即ち“フォークロア”を無視することは出来ない。つまり神話世界におけるドラゴン(竜)の物語や、日本各地に見受けられる龍神伝説などだ。
洋の東西を問わず、無論本邦においても、竜に纏わる昔話・民話・お伽噺の数々が俗伝し、そして各地に散在している。これらには、湖や沼沢との関係性を示唆したものが実に多い。国内のものに限って、ほんの数例を挙げてみよう。
「湖」と「竜」を組み合わせた昔話で、先ず誰もが思い付くものはと言えば、何は置いても『竜の子太郎』であろう。テレビアニメ・『まんが日本昔話』(1975年~)のオープニングで、すっかりお馴染みの『竜の子太郎』。実はこれの元とされる民話が、長野県に今尚残る。『泉小太郎』または『犀竜と小太郎』などと題されたそれは、諏訪大明神の化身である母竜が、人間界で育てられた愛息子(泉小太郎)と共に、土地の開墾に尽力するという物語だ。満身創痍になりながらも、それでも村人たちの為に精を尽くす母子像が壮絶である。舞台となったのは、現在の“龍神湖”(昭和62年に命名)。この名が母子竜の物語に因縁した後付けであることは、言うまでもなかろう。
群馬県の榛名湖には、美しい姫君が投身(入水)して、その後に竜(或いはおろち)となった伝説がある。『木部姫』というその民話は、『竜になった奥方』の題名の方でより親しまれているであろうか。この物語については地域によって仔細が異なり、それぞれ『伊香保姫』・『藤波姫』・『長野姫』・『腰元ガニ』などというように、ヴァリエーションに富んだタイトルも特徴である。
秋田県の田沢湖に纏わる『田沢の辰子』も、「湖」と「竜」が織り成す昔話として馴染み深い。「綺麗になるように」と観音様に願掛けをして竜になってしまった辰子と、還らぬ我が娘を案じて悲嘆に暮れる母。互いを思う親子の絆が、この物語の肝だ。この“辰子竜”が棲んだのが今の田沢湖であり、母は湖による豊かな水と魚の覆露に与ったと云う。
西に目を向けてみれば、日本一の大きさを誇る琵琶湖。ここにも竜伝説がある。雨続きで伊吹山中腹の池が増水、麓の村に住む姉妹が池に飛び込み二匹の竜となり、超過した水と共に山を駆け下りたと云う話。流れ着いた先が“びわの町”で、これが琵琶湖と姉川・妹川の謂われとなっている。
弁天様に恋をしたが為に、改心をした五頭竜の物語。神奈川県は鎌倉、深沢村の湖に纏わる伝説だ。これが今の世に伝えるのも矢張り、江ノ島の“片瀬”や“竜口山”の謂われ・来由である。また“腰越”なる地名が、実は“子死越”(竜に喰われた子どもらが、死んで山を越えること)に因縁しているという出処も、この五頭竜伝説だ。
これらのほか、山形県は白竜湖の来歴を説いた『白竜湖の琴の音』、神奈川県・箱根の芦ノ湖に纏わる九頭竜明神の伝承などなど。兎に角日本各地、「湖」と「竜」のコラボレーションで綴られた民話・伝説などの枚挙には事欠かない。それは日本列島が如何に湖や沼沢に恵まれた風土であるかを達弁に物語るものであり、斯様な「湖」の過多なる懐抱は、即ち同じ数の「竜」の存在を示すものでもあるのだ。なれば逆に湖沼を全く欠く例外の境域として、南方は沖縄が浮き彫りにされよう。
勿論人びとの営為が綿々たる歴史を紡いでいるのなら、其処がどんな文化圏であろうと、「竜」が絡む何某かのひとつやふたつは、フォークロアとして現代に伝承され何らかの形で生き遺っている筈だ。そう揚言して差し支え無いほど、竜は全世界で最も重宝された畏怖と信仰の対象のひとつなのである。これについては無論、沖縄も例に漏れない。『竜とニワトリ』や『竜の目をなおした男』、そして幾つかの竜蛇退治説話など、琉球の国にも竜は聢と棲息していたのである。だがひとつ、周囲を“ちゅらうみ”に抱かれたその島に欠けていたものは、湖や池沼などの淡水水域であった。
金城哲夫が愛した「湖と竜」という取り合わせ。これが果たして、出身地・沖縄における湖沼の欠如を故由とした渇望なのかは、勿論憶測の域を出ない。だが前掲ベムラーやエレキング、ガラモンなど、異変が起こり異形の出現する場所について思惟したとき、それが何故「湖」でなければならなかったのか?という問いに当面する。なれば沖縄人・金城の熱き眼が見つめる視線の先に、豊潤な湖沼群を擁する日本“本土”が在るように思えてならないのだが。
列島各地に息衝く「湖と竜」伝承には、日照り続きや降雨過多などの異常事態に対して、娘子による「人身御供」的な措置が執られるといったストーリー展開のものが多い。本エピソード・「謎の恐竜基地」は、(人為的乍ら)北山湖における魚の“異常”繁殖で幕を開ける。モンスター博士によって囚われた2人、このうちイデは置くとして、女性・久保記者を人身御供の隠喩と位置付けたら、それは穿ち過ぎであろうか?
また本編導入部における湖を含んだ森林の活写も特異で、生来より日本の風景の中で育った者には奇警なものとして映る。フルートの音色も妖しく、カラスやヘビ、ザリガニ、イモリなどの跋扈と。これらは確かに列島の何処でも見られた風物なのだが、子ども心にも居心地の覚束無さを感じたものだ。それは対象が、所謂“気味の悪い生物”であったこととは無関係に。何と言うか、どうにも馴染めない異国の風合い。本土の人間が本土を撮ろうとすれば、そのような描き方はしない、いや出来ない筈だ。
尤もこれについては、本作が『ウルトラマン』での初登板となる満田穧監督、その初陣演出が為せる技なのかも知れぬ。(因みに満田は長崎市出身) 『ウルトラQ』では僅か2本(第21話「宇宙指令M774」・第26話「燃えろ栄光」)を手掛けただけで、ウルトラの世界観にはまだ不案内であったこと。それよりも先ず『ウルトラマン』自体が、黎明期における模索状態であったことなどを顧慮すれば、なるほど満田の試行錯誤の所為・結果として捉えることも出来よう。
だがそうであっても、本話全編を霧瘴のように包み覆う“異国情緒”の正体を補説するには不充分だ。見るものをして、茫とした隔世感に籠絆しむる、霧のよな煙のよな。その発生源について、演出の技巧が云々などと言うのは見当違い。実はその域外、つまりこの物語を拵えた作者自身の、根っこの処で発生しているのではなかろうか。そう、その淵源はもっともっとラジカルで、自身では隠しようもない、生まれ付いての性来...。
子どもの頃覚えた北山湖の、あの薄気味悪さと肌触り。今にして思えばそれは、本土を異邦として見据える“うちなーんちゅ”、その目線との間に生じた齟齬・ズレに依るものではなかったか。湖の来歴を説く竜の物語。若しくは、竜が棲み得るに足る霊験灼な場所としての湖。そしてそれが、己のルーツである沖縄には皆無であったという決定的隔絶。“コスモポリタニズム”を掲げ乍らもそこにはやはり、“内地”を憧憬する金城少年の眼差しがあったようだ。
対峙した両者。ウルトラマンとジラース。先ずは小手調べとばかりに、互いに光線技をひけらかし合う。まるで決斗前に自身の腕前を披露するガンマン。そのようなその活写法は、往年の西部劇で重宝された窮めて便益な常套手段だ。
次にウルトラマンはジラースご自慢の襟巻きを剥ぎ取り、それをムレタにして振り翳す。言うまでもなくこれは、マタドールの模倣だ。対して拙劣な挑発に容易く乗っかるジラースは、否応無しに牛に堕す。猛牛の如き突進を、ヒラリと躱すウルトラマン。ジラースは更に嚇怒嚇怒嚇怒。ここに怪獣版闘牛競技が幕開ける。
そして最後、雌雄の決着は時代劇風に。一ときの静寂の後、両者交錯!必殺の手刀で急所を衝かれたジラースの、その口からは吐血がダラリと漏れ出でて。この静謐なるが故に、余りにも作為的な頽おれ。事切れた相手への敬意は、生前の好敵手が纏いし襟巻きを、その亡骸にそっと掛けてやることで払われて...。武士の情けじゃ。(極め技・“ウルトラ霞斬り”の名称は勿論後付けで、白土三平作・『カムイ外伝』の“変移抜刀霞斬り”からの拝借というのは眉唾)
古拙。決して至妙・達者とは言えない演出による一連の流れ。このような旺盛極まりないサービス(?)の中にあって、最も目を惹き且つ唖然とさせられるもの。それは矢張り、「ワッハッハッハッハッ...」とウルトラマンが笑う件りであろう。「あのウルトラマンが笑った!?」 「あのヒーローが実は、意外にもこんな...」 斯様な喧伝の下、昭和TV懐かしの吃驚シーンを採り挙げ、さもそれが衝撃であるかのように過剰吹聴し、出演者なり視聴者なりからの関心を惹く趣旨の類似番組では、「もう嫌!」と言うほどさんざ持て囃されてきた、そうお馴染み例のアレである。
怪獣ジラースの剽げた仕種に加えて、謎に満ちた存在で在る筈のウルトラマンが示した余りにも人間的な所作。これが例えば佐々木守脚本・実相時昭雄監督による作品であれば、そういった人間臭い挙措も効果として活きてくる。第34話「空の贈り物」。万鈞過重なスカイドンにほとほと弱り果て、ウルトラマンは「参ったな」とばかりに首傾げ。また第35話「怪獣墓場」では、拗ねたシーボーズの背後に歩み寄り、ポンポンと肩を叩いてやる慈愛の気振りを見せ、剰え欧米風「お手上げ」のジェスチュアさえ取って見せた。これらは佐々木・実相時コンビネーションが織り成す特異な作品性であったればこその、有意義な擬人化と言えるだろう。
ところが「謎の恐竜基地」については、そもそもそのような“おふざけ”の介入を許容する代物ではない筈。教授が恐竜に寄せた哀しき愛の物語は、むしろ抜き差しならないシリアス・ドラマとして終始一貫されるべき性格のものだ。西部劇やら闘牛やら時代劇やら、また笑ったりと。クライマックスに横溢する悪ふざけの数々は、本エピソードが内包している真摯な哀切性を大いに殺ぐものであり、そのミスマッチ感にあっては居心地の悪さを禁じ得ない。
トドメは奏楽。畳み掛けるドラムス・ソロのジャズ楽曲がまた、このシーンにおける不協和音として作用している。尤もそれで、ジャズ畑であった作曲者・宮内國郎の素晴らしい功績の数々を、勿論否定するものでもないが。
15年もの間、我が子に相対するように愛育した恐竜の亡骸に、致命傷を負った身体を引き摺って躙り寄る教授。先刻までの戯れは何処吹く風、元来の悲劇に立ち返らせる為の、取って付けたような幕引き。唐突極まりないこのフィナーレを、強引に悲愴ならしめているのも矢張り、宮内によって編まれた楽曲だ。※東宝映画・『ガス人間第一号』(1960年)で使われたものを再流用。あの過分に悲壮なラストの印象深さは、それまで「ウルトラマン対ジラース」において見受けられたコミカルさが、突如鳴りを潜めてしまうアンバランスさ、つまりドラマが「喜」と「悲」を往き来するという、どっち付かずの不安定さに因由するのではないだろうか。
このような不調和が、果たして脚本を担当した金城哲夫に因するものなのか、それとも満田穧監督の領分なのかは判らない。だがそもそもが「ウルトラマン対ゴジラ」。何は置いてもそれを見せたかったという僥倖頼りの山っ気と、「だったら思い切った事をしてみよう」という茶目っ気。これに附された物語が悲劇であったこと。トラジェディーの中にコメディーを織り混ぜる難しさと、元々そのような意趣が無かったというちぐはぐ。これが「謎の恐竜基地」を覆う靄の正体であろう。「描きたかったもの」と「見せたかったもの」との齟齬は、宮内のジャズ音楽との不共鳴によって、空中分解へと仕上げられたのである。
「人間が怪獣を飼い馴らす」ないし「人間が怪獣と心を通わせる」といった物語。怪獣物にファンタジー性を綯い混ぜにしたウルトラ・シリーズにあって、そのようなシチュエーションは或る意味本筋なのかも知れない。何故なら、シリーズの初志とも言うべき『ウルトラQ』では、人間と怪獣との交流を描いたものが多く制作され、これらが空想科学特撮の作品世界を決定付けているからだ。
『ウルトラQ』第1話におけるリトラとジロー少年をはじめ、ゴローと五郎(第2話)、ガメロンと太郎少年(第6話)、ラルゲユウスと三郎少年(第12話)、ピーターとダイナマイト・ジョー(第26話)と。「孵化」や「飼養」といった、その怪獣の成長に人間が関与したもの、即ち「主人と愛玩動物」的性格を帯びた間柄のものを挙げただけでも、ざっと以上の通り。単に「交流」だけに眼目を据えれば、その数は更に増える。
尤もこれらは、「怪獣を倒すべきヒーローが登場しない」という『ウルトラQ』の作品性であったればこそ、斯様なファンタジーの介在を許容する懐の深さがあったと言えるだろう。そしてウルトラマンやウルトラセブンといった特定のヒーローが登場するものへと方針が転換され、「人間と怪獣の交流」が如き幻想劇の成立に不向きな状況となった爾後も、このスピリットは失われる事は決して無かった。シリーズの根本精神を纏った素晴らしいファンタジーの数々は、現在でも尚紡ぎ出され続けている。
だがこの「交流」が、科学者一個人の暴走に端を発するとなると、事は穏やかに済まないようだ。それは最早、“ファンタジー”などと呼べる甘っちょろい代物ではない。「生み出してはならぬもの」または「育ててはならぬもの」、これを生み出し、そして育て上げてしまったという禁忌の破戒。生命への冒涜を履行・体現する悖徳者の、生々しさが剥き出しになった歪な人間像、その顕現だ。
己の研究に傾注・没頭するあまり、自ら生み育んだ異形の生命を、さも我が子のように溺愛。「肝胆相照らす」を当然の事として期待する科学者の歪んだ愛は、実は独り善がり。育て上げられた新生命体にとってみれば、我関せずの素知らぬ体である。怪獣からは、何らの見返りも無い。在るとすればそれは、ややもすれば育ての親さえ殺してしまう無垢。勿論そこに両者の「交流」は成立せず、科学者の一方的な「情交」の念が、寂寥の荒野に燻り続けているだけだ。
このように、行き過ぎた探窮と度を越えた愛が為に、どん詰まりを迎えることと相成った科学者と怪獣の悲惨。それをシリーズの嚆矢として初めて示し遂せたのが、このジラースの物語だ。尚、後続シリーズにおけるこの手合いの白眉としては、合成怪獣レオゴンが登場した『帰ってきたウルトラマン』第34話「許されざる命」が思い浮かぶ。太古の生命を育て上げた二階堂と、禁断の生命を創り出した水野。いずれも手塩に掛けた我が子によって、逆に手を掛けられるという窮境が共通している。
1973年から1974年にかけて、オーストラリアで製作・放映されたTVドラマ・『悪魔の手ざわり』(原題:『The Evil Touch』)。一話完結型のホラー・アンソロジーで、日本では1982年に深夜枠で放映された。これの中に「いとしの怪獣」(原題:「Dear Beloved Monster」)なるエピソードがある。科学者が湖で恐竜を飼育し溺愛するストーリーは、全く以ってジラースのそれと同じだ。またこの“愛しの怪獣”がいずれ人びとに危害を加え、公に晒されてしまうであろう行く末を懸念し、科学者自らの手によって葬らざるを得なくなったという悲愴の有り様は、レオゴンの場合における水野のそれと一緒である。恐竜ないし怪獣を飼養・愛玩するといった願望は、どうやら洋の東西を問わないようだ。
だが人は何故に怪獣をペットにし、斯くもそばに侍らせたがるのか?自身より矮小な動物、つまり犬猫や禽獣、鑑賞魚などで充足し得ないのか?
ひょっとしたら愛玩対象動物のサイズ・スケールは、それを飼養する人の境涯に根差しているのかも知れない。即ちライオンやトラなどの猛獣を飼い馴らす者は、己が権・財・武の力を示威せんが為に。そしてそれが叶わぬ力乏しき弱者は、それが故に矢鱈と「力」に固執し、膨張した妄執の中で大きな「何物か」を育て上げるのだ。その「何物か」の巨大化は、弱き存在が鬱積させた自意識の過重にシンクロし、可能であればそれは恐竜にも怪獣にも成り得るということである。年毎好例の児童向けアニメーション映画・『ドラえもん』シリーズの第一作目、あの『のび太の恐竜』(1980年公開だが、元となった短編漫画の初出は1975年)が、斯くも見事にこれを実践しているのではないか。
湖畔に居を構える怪しき博士。魚の異常繁殖に釣られてやって来た好事家たち。取材する者。宿泊施設の従業員等々。深山幽谷に分け入って、禁断の湖に集結した「彼ら」。
さてその“ウルトラマンの素顔”。『ウルトラQ』第4話「マンモスフラワー」ではお堀に蝟集した野次馬の中に、また同第24話「ゴーガの像」では岩倉の手下・“蜂”として、それぞれ拝めることが出来よう。ウルトラを離れた円谷作品にあっては、『怪奇大作戦』第10話「死を呼ぶ電波」の村木秋彦役、『戦え!マイティジャック』第21話「亡霊の仮面をはぎとれ!」の医師役が挙げられる。
尚古谷は、ウルトラマン以前にケムール人(『ウルトラQ』第19話)とラゴン(同第20話)を演じており、何もウルトラマンが初めての“素顔隠し”ではなかったようだ。こういったスーツ・アクターとしての実績を買われてか、1972年、『突撃!ヒューマン』では再び擬斗の任に就いている。
沖縄方言では、「次郎父さん」を“ジーラースー(次郎主)”と発音するそうだ。当時の製作スタッフに“ジローさん”と呼ばれる嚇怒性の高い人物が居て、沖縄出身の金城哲夫がそこから“ジラース”を名付けたとする説が有る。また“ゴジラの親父さん”の愛称で親しまれた円谷英二に敬意を表し、やはり金城が命名のヒントとしたとか。いずれにせよ、着ぐるみの母体となった「ゴジラ」の“ジラ”を意識的に絡ませたことではあろう。何とも心憎い名付けだ。
昭和43年11月1日発行の「『ウルトラマン』番組販売用パンフレット」。本エピソードのストーリー記述を見ると、舞台となるのは北山湖ならぬ“川西湖”、そしてモンスター博士、つまり中村博士ないし二階堂教授の名は“伏見”となっている。これらの違いは「謎の恐竜基地」の初稿段階、即ち「原始怪獣」や「怪竜ウラー」などにおける名残りによるものなのであろうか?
因みにモンスター博士の正体は、当初『ウルトラQ』の一の谷博士(演:江川宇礼雄)が予定・勘案されていたとか。もしそれが採択されていれば、折角積み上げた善良なる科学者としての信用・功績は失墜、且つまた「怪獣を愛でる」錯乱っぷりに、ブラウン管の前の子どもらは大いに驚嘆させられたことであろう。可惜何たる無謀!
『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1966年12月公開)で、水中撮影用に登板が決定していたゴジラのスーツは、条件付きで円谷に貸し出された。曰く、「決して爆破させぬこと」。このためジラースは、劇中スペシウム光線で倒されることがなかったそうだ。
以上、長くなったがそれでも要約した積もりの、ジラースの着ぐるみに纏わる遍歴、紆余曲折の概貌である。
みんな知っていた、馴れ親しんでいた。ブーム(昭和59年)以前に登場した、エリマキトカゲ怪獣やらエリマキトカゲ怪人やら。
昭和40年代を彩った、“襟巻き
付き怪獣・怪人・恐竜”の主たるあれやこれや。
因みにジラースの鳴き声もまた、ゴジラのもの、即ちチェロの弦弾き音から作ったものを転用している。(これは第1話登場のベムラーも同じ) つまりジラースは、身体の内と外のみならず、加えて発する音声さえもというように、徹底した“ゴジラまみれ”の上に成り立っているのだ。
♪ぅわくぁうぃ~(赤い)、ぅわくぁうぃ~(赤い)、ぅわくぁうぃ~(赤い)、ぅわいつぅ~(あいつ)、リェードミャァ~ン(レッドマン)、んむぉいぇりゅう~(燃える)、んむぉいぇりゅう~(燃える)、んむぉいぇりゅう~(燃える)、ぅわいつぅ~(あいつ)、リェードミャァ~ン(レッドマン)...♪と、子門真人の小節回しが耳に心地よかったテーマ・ソング。“第2期怪獣ブーム”に沸く昭和47年、月曜から土曜の毎朝毎朝、登校前の怪獣少年らを魅了したスットコドッコイな怪獣プロレス。へたれジラースのヘッポコ戦歴ぃ~!
時には詳述な年代まで特定された古代出自という「設定」に留まらず、加えて恐竜を髣髴とさせるその「容貌」。シリーズ創成期(『ウルトラQ』・『ウルトラマン』)、或いはシリーズ復活期(『帰ってきたウルトラマン』)という、謂わばドサクサの混沌であったからこそ生まれ得たヤツラ。怪獣と恐竜の挟間で揺れ動く、微妙で曖昧な“恐竜的怪獣”たち。(単に「古代出である」という設定だけのものは除外、容姿重視)
『ウルトラQ』第2クール制作中に勘案されたストーリーに、「ガラダマの谷」なるものがある。これが『ウルトラQ』第13話「ガラダマ」の準備稿となったのは、言わずもがな。但しその内容は、実際のフィルム作品化にあたって、大幅な変更が為された。この「ガラダマの谷」のNGプロットが、その後、新生『WOO』企画段階では「原始怪獣」となり、続く『ベムラー』のストーリー案集での「怪竜ウラー」を経て、最終的に「謎の恐竜基地」へと実を結んだのである。
だがしかし。金城の「湖」への執着が、竜と絡んだ伝承に来由するとは一概に言い切れない。昭和40年代当時、ブームとまではゆかぬが、「湖」なる場所は家族と連れ立って楽しめる人気のレジャー地であったと、そう肌に覚えが遺る。(北山湖湖畔にホテル営業の描写有り、尤もこれはタイアップ撮影として下田温泉ホテルを使用)
♪静かな湖畔の森の翳から...♪や♪森と泉に囲まれた...♪ など、民謡や昭和歌謡でも謳われたように、湖とそれを囲繞する森林は常にセット感覚であった。都会の喧騒を逃れた昭和現代人にとってその佳景は、さながら異国のように映ったことであろう。
夏のある日 こんだプール 水のしぶき 受けながら プールサイドに 立つと判る 汗の匂い 唾の匂い 尿の匂いの人の匂い あまりにも人間的な匂いよ ※「人間合格」作詞:戸川純 『極東慰安唱歌』 :戸川純ユニット(1985年)より
ウルトラマン。M78星雲からやって来た彼方は何者? ときに厳しく、ときに優しく、怒ったり、笑ったり、哀しんだり。地球に来てどれくらい経っただろうか?その動作、その身振り、その坐作進退、立ち居振る舞い。一挙手一投足に滲み込んだヒューマニティ。嗚呼、余りにも人間的な挙止の数々よ。なれば彼方は地球人合格!
過剰に悲愴ムードを盛り上げる楽曲と、苦悶する人物の顔面アップ。この後味の悪い幕。
似た光景を、『帰ってきたウルトラマン』に見ることが出来る。第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」のラストだ。強敵相手に辛くも勝利した郷秀樹がスタジアムの芝に伏臥、惨苦の皺を顔面に刻み、息も絶え絶え躄るというエンディング。これに重なるのは、矢張りシリアス曲調で編まれたB.G.M.だ。
二階堂教授と郷秀樹。無論置かれた境涯は月とスッポンほど違えども、そのシーンの酷似性には吃驚を禁じ得ない。是非とも見較べて頂きたい。
バイプレイヤーの雄・中山豊。東宝作品、分けても怪獣物・怪奇物に絞った出演作と役柄一覧。
ウルトラマンの肉体を持つ男・古谷敏。根っからの円谷肌かと思いきや実はそれ以前、東宝の怪獣映画に多数出演していた実績を持つ。なれば古往今来の怪獣気質か。では、古谷の怪獣映画足跡を以下に。
日本年齢15歳、ネス湖の恐竜現わる!
どう見たってゴジラだ!
何故に不完全なる変身なのか?
金よ、お前は力石に劣るんだ...
奉仕の画策か?抗いの実践か?
怪獣パッチワークによる接ぎ合わせ
毒の「黄」と苔の「緑」が織り成すハーモニー
“飛んだり、泳いだり、飾り立てたり”ではない
怪獣よ、テレビにのさばれ!お茶の間に蔓延れ!
所有権の鉄壁は、ジラースの復活を阻む
「怪獣≠恐竜」の今、
そして「怪獣=恐竜」が可能だった昔
昭和...この忌々しくも愉しき年代
金城が描く「湖と竜」の淵源に、ネッシーは居ない
数多の湖沼を領有する本土には、それだけ竜伝承も
淡水水域による豊水への恋焦がれ、
沖縄生まれの竜が見つめるその先
ウルトラマン、それはやり過ぎ!
“人間的ウルトラマン”を許す?許さない?
ディスハーモニーの音頭執りは、
「ウルトラマン対ゴジラ」
もし出来るなら、恐竜を手なずけてみたい
クレイジー博士のご両人、その所縁怪獣
毎度お馴染み、西條康彦と中山豊が出演
地顔を晒したお二方