東京都千代田区丸ノ内1丁目の東京広告社ビルの地下にあった球根から生長し、コンクリートを突き破りビルの屋上で開花した太古の巨大植物。一の谷博士によって“マンモスフラワー”と命名された。長大な根で皇居の濠から水分を吸収し、一帯に地震を発生させながら生育。また吸血根となっている根は、地下街の人びとを襲ってトゲから吸血し、原始的な吸血植物の特性を見せる。巨大な花から散布される毒花粉は、クモの巣のように人間に絡みつき、吸血根とともに人びとを恐怖に陥れた。根はアスファルト道路を隆起させ、花芽や幹や茎はコンクリートを貫くほどの強靭な力を持つ。源田博士考案・開発の植物を窒息させる薬剤・“炭酸ガス固定剤”を空中散布され、更に地下街での自衛隊による火焔放射と併せた両面作戦によって、枯死を遂げた。
“ジュラン”の名は、「ジュラ紀の蘭の花」が由来だ。もっとも“ジュラン”の名は、劇中では一切呼称されない。且つまた放射状に開いた5枚の花弁はハイビスカスのようであり、3枚花弁が基本の蘭とは大きく異なる。そもそも蘭の最大特徴である唇弁が、ジュランには無い。むしろ『仮面ライダー』に登場したドクダリアン(第32話)の方が、ダリアの名を語ってはいるが、その花弁の形状は蘭の花であると言えよう。しかしともあれその名が示すとおり、ジュランは花である。古代の植物だ。ビルを貫くほど巨大というだけであって、「怪獣」とは言い難い。
この巨大植物は、『ウルトラQ』がまだ怪獣路線に変更される以前に制作された作品(脚本No.1!)に登場する。その意趣は、当時人気を博していたアンソロジー形式によるアメリカ製SFドラマであった。その中に登場する「異者」とはすなわち巨大生物のことであり、したがってジュランは「怪獣」としての意匠を纏うことなく製作されたのだ。
見たとおりジュランには、顔や四肢が無い。生長することはあっても、移動することは決してないのである。単なる植物であるジュランには、したがって角や牙や爪や尻尾などの「怪獣」を彩る要素が一切あるはずもない。たとえば『ウルトラマンタロウ』に登場したアストロモンス(第1話)など、身体の一部に「花」を有したりまた「植物の特性」を備えた怪獣の例があるが、ジュランはあくまでも「花」であり、そして「植物」そのものなのだ。よってジュランは怪獣デザインの見地からは語られようもなく、唯一個の植物として見られるばかりである。
移動しない植物怪獣。これがジュランを単なる巨大植物ならしめている。『ウルトラマン』に登場したスフラン(第8・26話)もまた、同じ「移動しない植物怪獣」といった趣きだ。両者とも根や葉で人を襲うのだが、息づく場所は定点である。そこから移動して、獲物を求めてうろつくことは決してない。
これがもし足ないしそれに準じた移動手段を有するならば、たとえば『ウルトラマン』のグリーンモンス(第5話)や『ジャイアントロボ』(1967-1968年)のサタンローズ(第3・17話)のように、立派な「植物怪獣」と呼べよう。グリーンモンスもサタンローズも、ジュラン同様に生育して巨大化する。また巨大化の最終段階においてビルを破壊せしめる様相は、まさにジュランの「世紀の開花」ショーと同じ趣きだ。(サタンローズは新宿を、そしてグリーンモンスはジュランと同じ丸ノ内に出現) その違いはただ移動手段獲得の有無だけであって、グリーンモンスもサタンローズも足が無ければやはり唯の巨大植物留まりである。もっともグリーンモンスには、目らしきものがあるのだが。ともあれ巨大植物は、足ひとつでたちまち植物怪獣となるのだ。
さてしかし植物怪獣になり損ねた巨大植物は、根や葉の「長大さ」が圧倒的である。ジュランの身長は100mとあるが、それがどこからどこまでの長さを指しているのかは判然としない。だが丸ノ内ビル街から皇居の濠まで届く根は、文字通り測り知れない「長大さ」だ。おそらくは数百mであろう。常軌を逸している。まさに途方もない古代の生命力だ。前掲のスフランも、100mにも及ぶ長大植物である。人を襲う部位は、長大な葉のほんの末端だ。獲物を捕えて巻き込むその先、すなわち摂取部位がある本体の自生地点など、皆目見当もつかない。これは実に不気味だ。怪獣以上に不気味である。植物怪獣ならぬ巨大植物は、呆れ返るほどの驚愕的な「長さ」で自己主張するのだ。それは獲得し損ねた「移動能力」を補って、足にも匹敵する。
「長大さ」が恐怖の象徴となる巨大植物は、したがってその造型物やシーンに細心の注意が払われよう。ジュランの主役たる部位は、ビル屋上から突き出した「顔」とも言うべき花弁および茎部分と思われがちだ。だが花は花。咲いているだけである。これに対して「裏方」とも言うべき根は、遠方の水を吸い上げたり人を襲ったりと極めて活発的だ。皇居の濠に根が浮かぶシーンや、生育する根によってアスファルト道路が隆起するシーンなどは、その不気味な「長大さ」を実に効果的に物語るものである。ややもするとそれは、本エピソードの最大の見せ場である「開花」シーンを、それこそ「喰って」しまいそうな勢いだ。
ジュランは当然、花弁部位と根の部分を別々に分けて作られた。一方ではビルの屋上に咲かせた巨大花弁を、そして一方では人びとを襲う長大な根を製作するという作業体制は、果たして如何様なものであっただろうか。もちろんそれぞれのスケール感は異なる。だがこの「一個体を別々に作る」という作業自体、ジュランの途方もない巨大さを体感するように思えるのだが、いかがだろう?
本エピソードの脚本は、金城哲夫と梶田興治監督の共著による。『ウルトラQ』がまだ怪獣路線に変更する前の段階、すなわち『UNBALANCE』という番組タイトルだったときの制作区分Aブロック、その記念すべき第一作だ。つまり「マンモスフラワー」は、その後40年以上にも及ぶ全ウルトラ・シリーズの中で、文字通りいの一番に制作されたということになる。「巨大植物がビル街を蹂躙する」という、かつて無かったスペクタクルに傾けた意欲と情熱の迸りが、モノクロ画面からでも充分感じ取れよう。
『UNBALANCE』時に制作された13本は、SFアンソロジー形式のアメリカ製テレビドラマを標榜しただけあって、なるほど「洋画モンスターもの」や「洋画スリラーもの」などに顕著な怪奇ムードに彩られている。それらは既存生物が巨大化したことによって巻き起こるスペクタクル(第2話「五郎とゴロー」など)であり、超自然現象の恐怖(第25話「悪魔ッ子」など)であり、驚異に満ちたSFドラマ(第17話「1/8計画」など)であり、そして本エピソードのように古代生物が現代に甦るというストーリー(第1話「ゴメスを倒せ!」など)であったりと、いずれにせよ怪奇ムードを強く打ち出しているのが特色だ。
この「マンモスフラワー」で描かれたのは、古代の生物が現代社会に出現したことによって巻き起こる恐怖と驚異のさまである。そしてもちろんそれは、イコール巨大生物が織り成す破壊スペクタクルでもあるのだ。だがその巨大な主は、動物ではなく植物だ。吸血根や毒花粉で人びとを襲う恐怖は、鋭い角・牙・爪を有し、火を吐き、咆哮し、尻尾を振り回して、破壊の限りを尽くす「怪獣もの」とはまた違ったテイストである。
怪奇ムードに彩られたこの「マンモスフラワー」の成功は、洋画モンスターものへの強い嗜好を持っていた金城なればこそだ。後続の『ウルトラマン』では怪奇植物グリーンモンスが登場する第5話「ミロガンダの秘密」を、そして『ウルトラセブン』では植物型宇宙生物のワイアール星人が登場する第2話「緑の恐怖」を、それぞれ制作区分Aブロック班の第1作に導入部として制作している。(金城は「ミロガンダ~」ではプロットを手がけ、「緑の~」では脚本を書いた) 金城の植物系モンスターへの執着が窺えよう。そしてグリーンモンスやワイアール星人が見せたのも、夜な夜な人々を襲う洋画モンスターさながらの恐怖の様であった。
植物は物言わぬ存在である。感情を表わす顔や、行動する四肢が無い。それが人を襲うというシチュエーションは、実に怖いのだ。金城は第9話「クモ男爵」のような、洋画スリラーの王道とも言うべき作品も書いている。だが基本的に金城が思い描く怪奇色は、植物が放つ緑色なのではなかろうか?
ウルトラ怪獣として記念碑的であっても、ジュランは唯の植物が故に人気が無い。したがってバルタン星人やエレキングなど人気怪獣のように、シリーズを飛び越えて再登場することは無かった。
しかし2007年。専用の“怪獣カード”を使ったアーケード・ゲーム『大怪獣バトル』のヒットにより、BS系のテレビ番組が制作された。この『ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル』なるテレビシリーズの第2話において、ジュランは41年目の再開花を果たす。ゴモラやレッドキング、テレスドンやゴルザなど、昭和・平成のウルトラ怪獣が跳梁跋扈する惑星ボリス。その“怪獣無法地帯”とも言うべき世界で、ジュランはその毒々しい花弁の色を初めて総天然色の下に晒したのだ。もっともこの度のジュランは、「花」の方への着眼に重きが置かれ、根による建築物破壊は描かれない。だがジュランのこの予想外の再登場は、同じQ怪獣であるリトラの復活と相俟って、ファンを喜ばせた。
その長大な根は皇居の濠から水分を吸収し、数百メートル離れた本体は丸ノ内のビルの堅いコンクリートを貫きながら生長、巨大な花が屋上で開花するという、何ともスケールの大きい、そしてかつて見たことのない巨大植物の生育による破壊スペクタクル。歴史の積み重ねによって築き上げた人類の文明を易々と崩壊せしめる、まさに人智及ばぬ古代膂力の行使だ。昭和当時、ほかに類を見なかったこのカタストロフィは、巨大植物の驚異を見事に映像化している。「もし巨大な植物が都会に出現したらどうなるか?」 本エピソードは、それを実践した昭和の映像実験として興味深い。
平成に入って制作された『ゴジラVSビオランテ』(1989年)は、巨大植物の驚異を描いたものとして白眉だ。この作品に登場した植物と動物の合成怪獣であるビオランテは、その成長過程で“花獣”なる姿を見せる。それは芦ノ湖から天を突くように聳え立った、巨大な薔薇だ。今までの対戦相手とは勝手が違う巨大植物と怪獣王・ゴジラとの戦いは、前半のハイライトとして印象深い。またジュラン同様にビルを貫いた巨大植物の驚異は、『ガメラ2 レギオン襲来』(1996年)で見ることができる。“レギオン草体”と呼称されるその巨大植物は、すすきののデパートを貫いて出現、札幌の人びとに恐怖を見舞った。この『ゴジラ~』も『ガメラ~』も、平成怪獣映画の傑作として挙げられる。両作品ともに見られる前半のハイライト、すなわち「巨大植物が現代社会を蹂躙する」というシチュエーションは、昭和の「マンモスフラワー」へのオマージュと言って良いだろう。何故なら『ゴジラ~』の脚本を書いた小林晋一郎や『ガメラ~』の監督の金子修介は、その少年時代を『ウルトラQ』に魅惑されて育ったウルトラ世代であるのだから。
さて見たとおりジュランは、巨大な花である。怪獣ではない。ただそこに生育しているだけで、人びとを恐怖に陥れるというだけのことだ。吸血根による吸血も、巨大花弁からの毒花粉散布も、言ってしまえば単なる生命維持活動である。大怪獣の破壊スペクタクルを期待する子どもには受けが悪そうなこの巨大植物の物語はしかし、通常(と言うのも変だが)の大怪獣ものでは決して味わえない、生命の驚異と脅威に直面することができよう。それはすなわち、推測や学識でしか推し量ることのできない超古代の顕現であり、人類が生まれる遥か前の「力」だけが全てだった弱肉強食の世界、その再現である。
「超古代の力が現代文明を脅かす」。同様のシチュエーションが第24話「ゴーガの像」や、『ウルトラマン』第19話「悪魔はふたたび」でも描かれた。有史以前の地上を跋扈したゴーガが、そしてアボラスとバニラが、奢れる現代人に対して鉄槌を下すかのように大都会を蹂躙する。その強大な力の行使を前にして、人間は自身の無力さを思い知り、そして自らを呪うのだ。
高度経済成長の真っ只中にあった1960年代の日本。ここに超古代の驚異が突如として出現し、その測り知れない力を形振り構わず振るう。言わずもがな、これが本エピソードの肝だ。
次々にビルが林立し、地面はアスファルトの道路で埋め尽くされた。本当にこれで良いのだろうか?好景気に沸く日本の有り様に対して、沖縄人・金城哲夫は「待てよ」と一石を投じる。きらびやかな繁栄と、加速して止まらない栄華。頂点を極めつつあった発展に、危うさは追従する。だがそれは、過度なまやかしによって糊塗された。置いてかれるのは、「人の心」ばかりだ。その薄ら寒さに、金城は警鐘を鳴らす。
一度立ち止まって考えよ。そのメッセージを携える主は、人類が生まれる遥か以前の地球の住人である。人類が信奉する「現代」は、見下し侮っていた「超古代」の膂力によって脆くもひっくり返されるのだ。頑強に思われた現代文明と、永遠に続くと思われた繁栄・発展。それらは実は、砂上に築かれた楼閣に過ぎない。金城が“マンモスフラワー”に託した想いのほどが窺い知れよう。
遥か悠久の時を超え、現代に花開かせた古代のかんばせはしかし、今生では害を振り撒く「異者」の顔にほかならない。相容れないもの、また共存出来ないものとして排除されるべき対象だ。たとえそれが、現代社会に対してどんな警鐘を発していようとも。人間の都合や身勝手によって、「異者」は排除されてしまうのだ。
ウルトラ・シリーズに自身のコスモポリタニズムを託した、沖縄出身の“使命の脚本家”・金城哲夫。本エピソードは、そんな金城の「異者」としての共感が盛り込まれていることにも着目できよう。「マンモスフラワー」は、“排除される側”からの目線が窺える一編でもあるのだ。
沖縄は今でこそ日本領となっているが、琉球王国時代には薩長藩に侵略され、先の大戦では本土を守るために捨て駒にされたという歴史がある。そして金城が上京した時代、沖縄はまだ返還前で米国統治下にあった。日本であって日本に非ず。少なくとも1960年代当時の沖縄人や金城には、「異者」としての意識があった筈だ。
「マンモスフラワー」と同時期、金城が脚本を手がけた作品に「五郎とゴロー」(第2話)がある。この物語では、“青葉くるみ”を食べたことによって「心ならずも」巨大化してしまったサルと、その巨猿に寄り添う聾唖の青年の姿が描かれた。害意が無い巨猿と聾唖青年はしかし、排除される対象である。そして現代に出現してしまった“マンモスフラワー”もまた、単なる生存活動を履行するものであるが、現代社会には極めて邪魔な存在で根絶される対象だ。共通するキーワードは「○○してしまった」であり、それは当人たちにとってみれば不可抗力であることを示す。
サルも聾唖者も喋らない。そして植物に到っては何ら発音器官を持たず、ただ沈黙するばかりの存在だ。金城はサルと聾唖者に、そして巨大植物に、排除されるものまたは根絶されるものの声なき主張を託したのである。彼らが「無言」であるからこそ、その主張は痛烈この上ないのだ。
「異者」が排除されることなく、共存できるユートピア世界。「信頼」だけで成り立つ素晴らしい社会。お互いがお互いを敬い、そしてどちらかがどちらかを圧することのないコスモポリタン。後の『ウルトラマン』において金城が取り組んだテーマは、既に胎動を始めていたのである。
『UNBALANCE』の第一作目として制作された本エピソードは、テレビ「映画」作品としての意趣が強く、それはバイプレイヤー(端役)の豪華さに顕著である。本エピソードの余談として、その数例を以下に敷衍してみよう。
ジュランを枯死に到らせた“炭酸ガス固定剤”。「植物が一番必要とする炭酸ガスを強力に固定化し植物を窒息状態にする」という設定は、梶田興治監督の発案によるものだ。ちなみに企画段階では、アンモニア水を吸わせてジュランを除去する予定だったとか。
巨大植物の開花は、古代蓮開花の如くある種のイベント性を備え持つ。さながら夏の夜空を彩る花火のように、「世紀の開花ショー」に人びとは天を仰ぐのだ。