旧日本軍が衰弱兵士の体力填補のために品種改良した特殊な滋養食・“青葉くるみ”を、軍の要塞基地があった天城山中の野猿観測研究所が保管しており、これを300個も摂食した猿が50mに巨大化したもの。化合成分による副作用で甲状腺ホルモンに異常を来たし、身体が急激な成長を促進されたものと端倪される。野猿研究所内の用務員で、幼少期に両親と死別した孤独な聾唖の青年・五郎に愛玩されていた、クモザルの「ゴロー」がその正体。巨大化後間もなくは山林に隠逸、五郎が運び込んだ果物やミルクで差し当たっては賄い凌いでいた。やがて静浦湾を望む伊豆・淡島の海上ロープウェイの前に、突如その巨大な姿を現わしワイヤーロープを掴んで垂下、搬器内の乗客らを脅かす。更に山頂の発着駅へと進行、多く人目に触れることと相成った。この事件で一躍周知となった巨猿は、マスコミなどの好事の的となる。だが元より害意は無く、巨大化以前からのおとなしい性質は不変、飼い主である五郎に従順だ。しかしその五郎が餌調達のために働いた窃盗で逮捕され、ゴローは充足な食料摂取に難渋、留置された主を追うような形で街場へ出現した。大勢の人びとを前に昂揚し、また警官の発砲で被弾し嚇怒逆上、振り下ろした握り拳で建造物の片端を突き崩す。毎日新報社会部・関デスクの発案で睡眠薬による沈静化策が採られ、ゴローとの主従関係を巧妙に利用された五郎が、そうとは露知らず薬品が混入されたミルクを愛しき巨猿に供与。やはり何の疑念も抱かぬゴローがこれを鯨飲、直後頽れるように建築物に凭れ掛かり昏睡に到る。五郎とゴローはその後、太平洋上のイーリアン島へ共々送致された。同毎日新報社会部キャメラマン・江戸川由利子のスクープによれば、その島にはゴロー同様に青葉くるみを摂取したと思しき巨猿の幾匹が棲息、安寧な営為に就いているとのこと。
霊長目広鼻猿類オマキザル科クモザル属。その名も“巨大猿”。名は体を表わし。ゴローは見て呉れ通り、巨大な猿だ。そもそもクモザルが巨大化したという設定なのだから、遵って架空の生物である「怪獣」としての意匠が、“巨猿”を体現するゴローに有る筈も無い。
ゴローの着ぐるみは、東宝映画『キングコング対ゴジラ』(1962年)で使用されたキングコングのものを借り受け、改造・流用している。キングコングも見たとおり、怪獣ではなく「巨大なゴリラ」だ。“ape”(類人猿)から“monkey”(サル)への代替施術、つまりサル体型の形成は、上半身における詰め物の間引きを以って為遂せている。臀部にはクモザル特有の長い尻尾が追補され、そして同じ霊長類ながら顕著な違いを呈する面貌即ち頭部にあっては、新たにマスクの造型が為された。ちなみに五郎とゴローの交歓シーンに、実寸大を想定した巨大な手の造型物が出てくるが、それもやはり『キングコング対ゴジラ』で使われたキングコングの手をそのまま充用したものだ。
ところでクモザルだが。所謂“新世界ザル”に種別され、ゴリラなどの“旧世界”群がヒトの進化に深く関与しているのに対して、こちらは無関係。肢体の有り様が人間様のそれと相似するものの、総じて小型(体長60cm前後)で尚且つ窮めて痩躯、殊に四肢については過剰に長く細作りだ。よって充填物の減省によって「痩けさせた」としても、ゴリラからサルへの転用には必定無理が生じよう。(元)クモザルにしては骨太なゴロー。“第5の肢”と謂われる尻尾のレングスも、既存種の比率(体よりも長い)からすればまだまだ不充分である。クモザルとして由緒正しいシルエット、その固定イメージからの離反。“ape”と“monkey”が全く別の進化の途を辿り、お互い相容れない体型であるという傍証が、つまり「非・クモザル」を顕現させたゴローの容姿なのだ。
さて。ゴローの母体となったキングコングだが、ご存知のとおり映画大国・アメリカの人気モンスターである。当時風に言えば舶来品なのだ。日本人が欧米のものを有り難がる傾向にあるのは、「ギブ・ミー・チョコレート」の昔から今も変わらない。そのアメリカ産の超人気者・キングコングに倣ってか、本邦でもゴローのほかにゴリラやサルなどの類人猿に着想した怪獣や巨大生物が、映画やテレビ番組に数多く登場した実績を持つ。
『猿の惑星』(1967年)シリーズの日本公開におけるヒット、それによって興った“猿人ブーム”の折には、『スペクトルマン』(1971年)や『猿の軍団』(1974年)など猿人が登場するテレビ番組が制作された。この一連の流れなんかは、アメリカからもたらされた「サル」の影響が極めて顕著に表出した例だ。
ゴローと同じウルトラ怪獣に目を向けてみれば、数は多くはないがいくつかの「サル怪獣」が挙げられる。ゴリラ顔のM1号(『ウルトラQ』第10話)や雪男のギガス(『ウルトラマン』第25話)、まさに猿人そのもののゴーロン星人(『ウルトラセブン』第44話)などだ。必ずと言っていいほど、1シリーズに1回は「サル」の登場が認められるのだが、これの意味するものは何か?
そもそも日本には「猿回し」や昔話(『桃太郎』や『さるかに合戦』)における猿の頻出に見られるように、古来より「サル」に対する愛好の素地が出来ていたと言えよう。またサルを山の神の姿とした猿神信仰、そして「見ざる・言わざる・聞かざる」などは、日本人のサル好きを雄弁に物語るものである。
中国のものであるにも関わらず、子どもたちに圧倒的支持を受け、堺正章主演のドラマがその人気を決定的にした『西遊記』の魅力は、何と言っても「サル」である孫悟空の活躍に尽きる。後の『ドラゴンボール』の世界的大ヒットは、このことを裏づける以外の何ものでもない。更にCMあるいは玩具などでサルはかわいらしくキャラクター化され、「日光猿軍団」ブームの勃興など、日本人の「サル」に対する愛玩の顕われには枚挙にいとまがないほどだ。
おサルが大好きな日本人。完全な「悪」としては描かれない怪獣のモチーフにサルを持ってくることは、ひょっとしたらこういった心情に起因するのかもしれない。「敵」ではなく愛すべき「隣人」であってほしい。その願いの権化として巨猿のゴローを位置づけたら、穿ち過ぎだろうか。
「日常生物の即物的な巨大化はやらない」と提唱した、ウルトラ怪獣デザインのオーソリティー・成田亨。この巨猿・ゴローは、成田がまだ参加する前に製作されたもので、「怪獣」としてのデザイン性は極めて乏しく、言ってしまえば「ただのサル」で何らの工夫も認められない。
このように自然界に実存する動物が巨大化して暴れるという物語は、古くからのモンスター映画の定石だ。第8話「甘い蜜の恐怖」におけるモングラーや第12話「鳥を見た」のラルゲユウス、第22話「変身」の巨人など、こういった「巨大化生物もの」は、『ウルトラQ』が「怪獣路線」に移行する以前の作品群に顕著に見られる。
『ウルトラQ』がまだ『UNBALANCE』という番組タイトルで制作されていた1クール13話分の作品群(ゴメスの項目を参照いただきたい)をざっと見ても、「怪獣」らしい意匠を凝らされたものは僅かにゴメスとナメゴンを数えるばかりだ。アンソロジー形式のSFドラマとしてなら、「怪獣」は「巨大生物」止まりでいいのかも知れない。だが、その後40年以上続くことになるウルトラ・シリーズを牽引してきたのは、何と言っても「怪獣」である。このことを鑑みても、「怪獣路線」への番組方針の変更は正しい選択だったと思わざるを得ないのだ。
番組路線の変更に伴って、円谷が「怪獣」というものに真摯に向き合ったとき、後のウルトラ・シリーズへの連綿は始まった。ゴローやモングラーなどの“客寄せパンダ”並みのこけおどしは、もはや誰の目にも明らか。必要なのは魅力ある「怪獣」と、それによって伴うであろう物語の制作意欲だ。
このときに前衛美術家・成田亨と高山良策を招聘したのは、円谷プロ史上最も的確な英断であったと言えよう。台所事情の逼迫から、更なる東宝怪獣の着ぐるみ流用が予定されていたが、それを拒否して自らデザインを手がけることを条件にスタッフとして参画した成田。だがもし円谷側がその成田の条件を受け入れず、そして成田が美術スタッフとして『ウルトラQ』に参加していなかったとしたら?素晴らしき個性に富む「ウルトラ怪獣」、すなわちガラモンやカネゴン、バルタン星人などが生まれなかったとしたら?
ロープウェイのワイヤーを揺らすこの巨猿を、そしてビル街に現われたこの巨大生物を、いま一度注視してほしい。東宝特美が製作したキングコングの着ぐるみを流用したボディは、劣化も手伝ってかひどくお粗末なものに見える。遊園地などの行楽施設などで見かける着ぐるみの域を出ず、したがって見ようによっては子供だましとも取られかねないのだ。この客寄せパンダの状態が以後の『ウルトラQ』でも維持されていたとしたら、その後40年以上に渡って続くこととなる大人気シリーズになり得たかは、甚だ疑問である。
ともあれこの巨猿・ゴローは、まだウルトラ怪獣が「怪獣」になり得ていない時期に生み出された「巨大生物」だ。「失敗は成功の母」と言ったらいささか辛口だが、その後ガラモンやカネゴン、バルタン星人などを生み出す原動力となった言わば「叩き台」的役割と考えるならば、その存在価値も一考に値しよう。
ゴローの着ぐるみ演者は福留幸夫だ。『ウルトラQ』ではほかに、ガメロン(第6話)・モングラー(第8話)・トドラ(第27話)を演じており、既存の生物が巨大化したものに断然縁深い。まさに遊園地などにおける、客寄せのための動物縫いぐるみ役者だ。
尚、福留が演じた怪獣は全て、『UNBALANCE』時に制作されたエピソードに登場する。これ以降、福留がウルトラ怪獣を演じた記録は無い。「巨大生物」から「怪獣」へ移行したときに、この福留幸夫が姿を消したことが実に象徴的である。
架空索道、即ちロープウェイ、のワイヤー・ケーブルに垂下して巨猿が咆哮、「ウキャッホー!」。その吼え哮けりは、まさにおサルそのもの。そうゴローの鳴き声は、実際に動物園で直接収録されたものだ。尤もそれが、果たしてクモザルのものであったかは不明だが。何らのフィルターをも経ず未加工のまま、遵ってダイレクトに響く生々しいあの野性味こそは、紛うかた無き“サル”の咆哮であろう。
このように『ウルトラQ』の“怪獣づくり”について、後続のシリーズと画している点のひとつとして、実際の動物が発する生声を以って「怪獣の鳴き声」に充用したことが挙げられる。ゴローのほかゴメス(第1話)などはその一類例で、あの嘶くような咆哮は人為的に作られたものではない。ともあれ御拝聴のほどを。
本邦分野の嚆矢・ゴジラ(東宝 1954年~)が、チェロの擦弦音から加工されたものであり、怪獣の鳴き声と言えば「ズバリそれ」といった趨勢。この因習の打破と作品の差別化を狙った山っ気、その発現が或いはゴローの哮けりとゴメスの嘶きなのかも知れない。「怪獣のテレビ進出」に気焔吐く、円谷プロの荒々しい鼻息。その投射としてゴローらの叫びを聴いてみるのも、また一興であろう。
それにしても可笑しな話しで、実際の動物の声であるのにも関わらず、これが怪獣の鳴き声としてテレビ画面上に宛がわれると、俄然「不似合いなもの」として響いてくるから不思議だ。つまりそのリアルさが、仮想生物のものとして耳馴れないのである。「怪獣はこんな風に、動物のようには鳴かない」といったバイアス。この呪縛の淵源に、上述ゴジラの咆哮、即ちチェロの擦弦音が鳴動していることは、言うまでもないだろう。
『ウルトラQ』の第2クールの企画として検討された「怪獣トーナメント」なるものには、第1クールに登場した怪獣たちの再登場や怪獣同士の勝ち抜き戦などが勘案されていた。我が愛すべき巨猿・ゴローにも再登板の予定が組まれており、宇宙怪獣討伐のためにイーリアン島から再び日本へ連れ戻されるという物語が用意されていたのだ。この「ゴロー対スペースモンスター」なるエピソードがもし撮影実現していたら、「ゴロー対ガラモン」のような夢の対決が見られたのかもしれない。
「五郎とゴロー」は、第17話の「1/8計画」とともに、一度銀幕の桧舞台に上ったことがある。1990年公開の劇場用作品『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説 』(脚本:佐々木守・監督:実相寺昭雄)、その併映としてだ。映画館公開の全国興行として、テレビ版オリジナルの『ウルトラQ』作品が上映されたのは、後にも先にもこの2本きり。そして「1/8計画」については巨大怪獣が登場しない回であり、よってスクリーン上に大写しされたQ怪獣は、唯一巨猿ゴローだけということになる。人気のQ怪獣、即ちペギラ(第5・14話)やガラモン(第13・16話)、そしてカネゴン(第15話)らを差し置いての抽抜を慮れば、この白羽の矢が如何にグローリィーであったかがお判りになろう。
では何故、ペギラやガラモン、またはカネゴンではなかったのか?興行の成功を思えば、兎に角も「巨猿」ないし「縮小人間」は扠措いて、ここはポピュラリティーの高いものを持って来るのが、芸能娯楽産業の常套だろう。縦し仮令それら併映作品が、この場合の主菜である『星の伝説』のアペタイザーであったとしても、食欲増進の為の舌拵えを望ましい状態にしておくことに、決して過ぎる事はない筈だ。
勿論「五郎とゴロー」と「1/8計画」が、どのような経緯の結果で選抜されたのかは、あれこれ思惟を巡らせたところで、それは憶測の域を出るものではない。2本とも、チーフライターの金城哲夫脚本作品であること。当然これも抽擢された理由のひとつであろう。金城が鬼籍に入って既に14年。そこには“ウルトラの父”へ手向けた哀悼の意念と、そして何よりも敬意があった筈である。だがしかしここで留意しておきたいのは、この2作品で描かれたそれぞれの“超常現象”が、お互い正反対の関係にある点だ。
「五郎とゴロー」がサルの巨大化で、一方「1/8計画」がヒトの縮小化。即ち、「マクロ」と「ミクロ」で相反するこの対照。加えてこの不遇な境涯に堕してしまう対象被験者が、「動物」対「人間」と、これまた対極している点も看過出来まい。現代社会において、何故サルは膨脹したのか?そしてどのような事情から、ヒトは収縮しなければならなかったのか?こういった問題定義こそが『ウルトラQ』の本来性であると、その初志回帰の発露がこれら2作品のチョイスだったのかも知れない。作劇で扱われたイングリーデンツが、「巨大化」と「縮小化」で相反し対蹠的であったとしても、双方とも『Q』世界を象徴するものに間違いは無いのだ。(尤も「1/8計画」も、1/8人間から見た1/1世界の巨大さを描写している点で、「主体から見た客体の巨大化」と、相対的に言えなくはないのだが)
思えば両作品は、番組が怪獣路線へと変更する以前に制作されたものである。“怪獣”などという完全な絵空事とは無縁なところで、先端科学によって生起された理不尽で不条理な世界。それが“アンバランス・ゾーン”だ。元よりこれを描くことが、『Q』の創作動機ではなかったか。「五郎とゴロー」と「1/8計画」は、そのスピリットをいま一度見つめ直す意義において、実に恰好な作品であったことだろう。もちろん登用された事象の対極性、その見端、つまり「大」と「小」のギャップによる画面映えと相俟って、だ。
90年当時、テレビではとんと御無沙汰、巷間からもすっかり遠ざかっていた本線のシリーズ。低迷期に幕、捲土重来を期し再度陽の目を見んと虎視眈々。なれば巨猿と縮小人間は、そんな状況にあったウルトラから何か新しきものを模索しようとする発信者たちをして、“原点”に立脚させたのかも知れない。
当時劇場に足を運び、実際にこの3本立てを観ての管見になるが。古代日本への憧憬が何とも押し付けがましく、ともすれば丁寧な作りが退屈さに堕してしまったかのような『星の伝説』。このメイン作品に対し、飽くまでも“添え物”であった筈の併映2本の方が、テレビ用作品で剰えモノクロ拵えであるにも関わらず、それでもスクリーンの大写しに持ち堪え得たという、寧ろそちらの方に吃驚。オリジンにして既に至高の窮み、コンプリート、パーフェクト。巨猿と縮小人間の二つの物語は、全国興行の銀幕でそれを実証してのけたと、そう思う次第なのである。
この巨猿の物語で先ず気を引かれるのは、猿の巨大化の原因が太平洋戦争の遺物であるということだ。ゴローを巨大化せしめた“青葉くるみ”は、旧日本軍が衰弱兵士の体力増強目的で品種改良を重ね開発した特殊な栄養食である。(ちなみにシナリオ及び零号プリントの段階では、“ヘリプロン結晶G”という薬品名であったが、その後スポンサーについた武田薬品の企業イメージを顧慮して、“青葉くるみ”に変更された) 荒唐無稽な代物ではあるが、戦時中には有り得た発想であろう。負傷し疲弊しきった兵士に、更に「戦え!」とばかりにムチ打つ戦争の理論に慄然とする。
あくまで架空の物語における設定に過ぎないにせよ、こういったものが事も無げに『ウルトラQ』の物語の中に織り込まれることは、当時がまだ先の大戦の記憶も生々しい“戦後”の中にあったことを意味しているのだ。明らかに次の大戦の“戦前”を生きている我々現代人には、先の大戦を語り伝承してゆく人びとが減少の一途をたどる世代交替の中では、もはや発想し得ない物語りなのである。
脚本は金城哲夫。『ウルトラQ』では全28話中12本もの脚本を手がけ、その後ウルトラマンという新しいヒーロー像を生み出し、『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』ではチーフライターを務めた。まさに「ウルトラ」の世界観の礎を築いた人であることは、殊更言うまでもなかろう。
沖縄出身の金城は、自身の少年時代の戦争体験も生々しい。そしてそれこそが「物語を作る」という彼の創作の根幹を形成していたであろうことは、極めて想像に難くないのだ。金城はウルトラ・シリーズの現役を退いた後の『帰ってきたウルトラマン』でも、「戦争の遺物」が原因の怪獣の物語を書いている。第11話「毒ガス怪獣出現」がそれだ。旧日本軍が開発した毒ガス兵器“イエローガス弾”を喰らい、毒ガス怪獣となってしまったモグネズン。彼は巨猿・ゴロー同様、曲折的な、いや直接的な戦争の被害者そのものであることは言うまでもない。
先の大戦が我々日本人に投げかけた影は大きく深く、そしてどこまでもどす黒い。その戦争経験者の発信であるからこそ、“怪獣もの”であっても、いや逆に怪獣ものだから、この物語は心に突き刺さるのだ。戦争のために「心ならずも」敵兵や民間人を殺してしまう悲劇は、まさに「心ならずも」巨大化してしまったゴローへの投射である。戦争の被害者が「心ならずも」加害者になってしまうという、どうにも救いようのない悲劇の連鎖だ。
ゴローは人間世界の外を生きており、したがって戦争の勝手を知る由もない。自身の身体の異変が、人間の戦争に因るものだとは当然知らず、したがって怨嗟など有りようが無いのだ。知能が人間に「若干」劣るからこそ、また人間に「近い」生き物であるからこそ、この「何も知らない」巨猿の悲しさは絶対的である。何も知らずに「心ならずも」巨大化してしまったゴローの物言わぬ存在が、この悲劇性を決定的なものとし、そして我々の心をどす黒く染めるのだ。
思えば、本邦の怪獣映画の祖である『ゴジラ』(1954年)も、米国の原水爆実験によって「心ならずも」怪獣になってしまった被害者である。戦争が終わっても、終わらない兵器開発競争。何のために?将来起こるであろう戦争のため、原爆に、水爆に、核ミサイルに、そして放射能に人間は躍起となる。人類が自ら招いた恐怖は怪獣となり、そして物言わぬ怪獣は人間に対して「心ならずも」復讐するのだ。
このようにして「物言わぬ」怪獣が発するメッセージは、戦争体験者を通じて痛烈に語られる。金城は「沖縄と本土を結ぶ架け橋」としての使命を自らに課していたが、それと同じく、戦中を生きた証人として「戦争」を伝えることを命題にしていたのであろう。それを包括した上で築き上げた金城独特の「コスモポリタニズム」は、やがてウルトラマンを生むに到るのだ。
戦後世代にまで爪痕を残す「戦争」の痛ましさとともに、金城はもうひとつの「人間の悲しき性」とも言うべきことに言及している。自分たちと同じならぬものは徹底してこれを攻撃・疎外するという、すなわち「異者排除」という人間の本質だ。
ままならぬ事情で巨大化してしまったゴローが、ただ「巨大である」という理由だけで、性質はおとなしいにも関わらず、人間社会に危害を加える畏れから排除対象とされる。同時に巨猿(=異者)に寄り添う人間・五郎でさえ、「聾唖」というままならぬ事情によって心を通わすのは専ら猿だけとなり、結局は巨猿ともども南の島へ「排除」されるのだ。村落共同体から「除け者」として生きるこの怪獣と人間のつながりは、同じ金城脚本の『ウルトラマン』第30話「まぼろしの雪山」における、怪獣ウーと雪ん子の間柄からも見てとれる。
この五郎にしろ雪ん子にしろ、両者は怪獣と一般人の間に介在する「異者」である。二人は村落共同体から差別されながらも、ある程度は同情を持って受け入れられていた。ところがそこへ特殊な薬品(青葉くるみ)やスキー場開発という近代化の波が押し寄せて来たときに、一般人との微妙なバランスが崩れ、二人は徹底的に「排除」される対象となってしまうのである。そして「排除」された彼らこそ、「怪獣」に連なる存在として暗示されるのだ。
余談になるが、2008年8月20日。東京都渋谷区の東急東横線渋谷駅構内に、ニホンザルが出没するという事件が起こった。渋谷署の警官らは捕獲作戦を展開するが、およそ2時間あまりの丁々発止、てんでんわやの末に原宿方面へ逃げられてしまう。(その後9月1日には、同一と思われるサルが千代田区神田小川町で目撃されるが、これも捕らえられず) 人間社会に紛れ込んでしまったがために、人に危害を加える畏れから捕獲され、いずこへと排除される野生の住人。相容れぬ生存本能と人間の恣意。この一連の騒動に、現代の「五郎とゴロー」を垣間見た思いだ。
約300年前、薩摩藩によって侵略された琉球。そして先の大戦では、中央(本土あるいは東京)を守るために捨て駒にされた沖縄。「怪獣=異者」という図式の中に、金城はまた「沖縄人=異者」という図式を重ね合わせていたのであろう。彼の視線がゴローや五郎寄りに、またウーや雪ん子寄りになっているのは、異者側としての痛切な「想い」の顕われにほかならないのだ。
聾唖の青年・五郎の、ラストの声なき悲痛な叫び。誰しもが耳を塞ぎたくなるような終幕だ。何故なら我々自身が排除した異者の慟哭が、厳然とそこにあるからである。我々「排除する側」は、自身でしたことの現実に目を向けたくないのだ。
しかし金城は異者側の怨嗟はさておき、国家や民族を超越したコスモポリタニズムの理想を、その後“ウルトラマン”に託すのである。弱い人類のために無償で戦うウルトラマン。それが金城の中にあった国際主義と国粋主義という、本来相容れないものを両立させ得た回答であった。
だがその博愛主義のヒーローでさえ、結局は怪獣を退治する役回りであり、すなわちそれは「異者排除」を履行する体現者そのものを意味するのだ。博愛主義と異者排除の矛盾、そして不本意。とにかくも金城の血みどろの戦いと葛藤は、既にこの巨猿の物語のときに胎動していたのである。
さて巨猿・ゴローの方ではなく、人間・五郎の方に触れておこう。聾唖という気の毒な身の上を背負った青年像は、巨猿・ゴローよりもある意味印象的だ。何しろラストの声なき叫びは、この物語の悲劇性を決定づけている。
この孤独な聾唖の青年を演じたのは、鈴木和夫という役者だ。ほかに『ウルトラマン』第11話「宇宙から来た暴れん坊」では水着撮影をするカメラマン役を、そして同第37話「小さな英雄」ではデパートに出現したピグモンに尻込みをする警官を演じた。同じ警官役としては『ウルトラセブン』第11話「魔の山へ飛べ」で、ワイルド星人の生命カメラで命を落とす巡査が印象深い。しかし鈴木の『ウルトラセブン』での最も印象に残る役柄は、第2話「緑の恐怖」でのあの口数の少ない陰気で不気味な郵便配達員だ。殆んど喋らない役柄は、聾唖青年・五郎に通底していると言ったら、穿ち過ぎだろうか。
2006年。『吾郎とゴロー』なる著作が、求龍堂より出版された。著者である川渕圭一氏は、フリーの内科医を生業とするかたわら、執筆活動を続けているそうだ。果たして彼の著作・『吾郎とゴロー』が、『ウルトラQ』の「五郎とゴロー」にインスパイアされたものなのかどうか?
氏は1959年生まれというから、1966年当時は6歳か7歳だ。彼が往時における他の子どもたちと等しく、『ウルトラQ』の放映を、再放送を含めて熱心に観ていた可能性は十二分に考えられる。つまり『吾郎と~』を書くにあたり、その構想の中に「五郎と~」のタイトルを拝借する意図があったことは、推考し得るということだ。但し〔五郎とゴロー〕という文言自体には特殊性が無く、したがって誰でも思いつきそうなものであるのだから、“単なる偶然”で済む話なのかもしれない。
では内容はどうか。『吾郎~』に登場する主人公・“吾郎”はエリート医であり、また“ゴロー”は吾郎の勤務先の病院に現われる幽霊の名である。聾唖の青年と医者、そしてサルと幽霊。登場人物についての共通性は、全く見られない。だが『吾郎とゴロー』が、「本当のコミュニケーションとは何か?」ということをテーマに据えて書かれているあたり、何やら「五郎とゴロー」に繋がって来はしまいか?“聾唖”という、人間としての伝達手段を奪われた青年が、それでもサルに心通わす物語、すなわち「五郎とゴロー」も、「コミュニケーション」に重きを置いて描かれたという見方が可能だ。
エリートを鼻にかける医者が、幽霊・ゴローとの出逢いを通じて、「本物のコミュニケーション」を模索する物語。人間社会から爪弾きにされた聾唖青年と巨ザルが、ヴァーバル・コミュニケーションを超越して心を交える物語。両作品における共通点の有無はさておき、一度較べてみるのも一興かもしれない。
ウルトラ・シリーズに登場した「サル怪獣」の数々を挙げ連ねてみよう。サルやゴリラなどの類人猿そのものをモチーフとしたもの、あるいはそれらに着想したと思しき容貌を持つものを集めてみた。
ここでは、「五郎とゴロー」に出演したバイプレイヤーに目を向けてみよう。本エピソードでは、ウルトラではお馴染みの面々が登場する。