標本採集のために連続人間消失事件を起こし、数年前より地球侵略の準備をしていた昆虫型宇宙人。標本は、人間心理などの解析が目的と推察される。事件捜査のために神奈川県警のパトカーが出動しているところから、暗躍範囲は同県周辺であろう。ウルトラ警備隊の調査活動開始に際して、機体を不可視化できる宇宙船で攻撃を開始、破壊光線で京浜工業地帯を壊滅させた。防衛軍極東基地のモニターにてその姿を現わし、人類を昆虫同等と面罵、捕らえた人びとを人質に全面降伏を迫る。地球の大気や重力などの天体環境を受けない宇宙船内の無重力室に常駐し、船外へ出ることはない。ダン進言の特殊噴霧装置作戦による赤色塗料塗布で宇宙船は可視化されるが、搭載していた5機の小型機で応戦、ダンが放ったカプセル怪獣ウインダムを退けた。人質救出のために母船内に侵入したウルトラセブンの前に姿を現わすが、間髪置かないセブンのアイスラッガーを回避できず、頭部を真二つに切断されて呆気なく絶命。主人を失った宇宙船も、大気圏外で撃墜された。
『ウルトラセブン』第1話は、のっけから吊るしモンスターの登場で幕を開ける。
前作『ウルトラマン』では、中に人が入っていることを前提とした「縫いぐるみ怪獣」という制約があった。しかしながらその縛りへの意欲的な抗弁として、ドドンゴ(第12話)やぺスター(第13話)などのオルタナティヴを具現させたのが、デザインを手がけた前衛美術家の成田亨だ。
その成田の飽くなき挑戦は、「縫いぐるみ」という重力から離脱した『ウルトラセブン』において、更なる飛躍を見せる。それがこのクール星人であり、ビラ星人(第5話)であり、チブル星人(第9話)であり、ナース(第11話)なのだ。操演による奇態な宇宙生物の姿と動きに、見るものは新たな地平に放り込まれるのである。それこそは、成田が開墾した新天地なのだ。
『ウルトラマン』に登場する怪獣は、その殆んどを地球に出自を置く。しかし「侵略宇宙人もの」が路線の本作『ウルトラセブン』に登場する宇宙生物は、地球上生物の常識から解き放たれた謂わば自由発想の領域だ。
この地球重力圏から解放された新たな畑でも、成田亨はシュルレアリストとしての本然を発揮する。前衛美術の本領である「抽象性」を強く打ち出した意匠は、ゴドラ星人(第4話)、ペガッサ星人(第6話)、メトロン星人(第8話)などのアブストラクトに顕著だ。
これら不可思議なかんばせを持つ生命体は、それでも「それがどこかに存在する」という生物としての息づかいを放っている。それは成田と、そして造形を担当した高山良策とのコラボレーションによる才覚と力量、その賜物以外の何物でもない。
我々は生物としての秩序の解体をまのあたりにする一方で、空想と現実の境界を崩しかねない「有り得る」生物感に畏怖の念の勃興を禁じえないのだ。それは『ウルトラQ』のケムール人(第19話)や、『ウルトラマン』のバルタン星人(第2話)、ザラブ星人(第18話)、メフィラス星人(第33話)などで既に体験済みなのだが、『ウルトラセブン』ではそれがより強烈に作用する。これによって我々は、英語の「would」や「should」の中にニュアンスとして含まれる「現在とは遠く隔てた過去もしくは未来」に連れてゆかれ、そして無慈悲にも放って置かれるのだ。
クール星人はそれでもまだ外貌はシラミか何か隠翅類の虫のようであり、モチーフとした元の生物の「具象性」が顕著だ。その「具象性」と、頭部と体躯の位置関係を崩壊させた「抽象性」を鑑みれば、クール星人は「具象」と「抽象」の狭間にある宇宙生物であると言えよう。トンボを思わせるピット星人(第3話)や団扇エビに着想したビラ星人(第5話)、吸血コウモリのような顔を持つイカルス星人(第10話)などが、「具象」の部類だ。また顔の位置を意図的にずらしたチブル星人(第9話)やブラコ星人(第22話)が、「抽象」の部類と言える。
常識外れな形態を有するクール星人の顔面には、目と口が常識的な位置に配されている。そして開閉によって垣間見える口腔内のピンクによって、クール(冷酷)の名が示す残忍さを否定するような、宇宙生物の「表情」を見ることができるのだ。虫ケラみたいな外見で人類を虫呼ばわりする「小憎らしさ」は、この表情ひとつで「愛嬌」に取って替わる。成田・高山コンビによる、まさに「ウルトラ怪獣マジック」だ。
クール星人は、その愛らしい瞳の間、つまり眉間に当たる部位と、そして昆虫で言えば臀部に相当する部位の2箇所に、黄色く発光する器官を持ち合わせている。地球上の生物で言えば、ホタルやクラゲ、イカ、深海魚などに見受けられる発光器官がこれに当たるものと言えよう。ホタルやクラゲが光ることに意味があるように、また他天体に棲まう異星人の発光にも何らかの意味があるものだろう。「有り得ない」生物に「有り得る」ストーリー性を纏わせる。成田の力量以外の何物でもない。
単に劇中で効果的に目が光るのではなく、目以外の部位、あたかもわざわざ発光するために設けられた箇所が発光あるいは明滅・点滅する。このように、想像上の宇宙生物やクリーチャーなどに発光する特別な部位が配されるのは、今でこそ当然の手段・方便だ。だがこの試みは、少なくとも本邦における「発光する宇宙生物」の嚆矢は、成田が放ったと言えよう。『ウルトラマン』のバルタン星人2代目(第16話)やメフィラス星人(第33話)、ゼットン(第39話)などが、「目以外」の部位が発光・点滅した最も早い時期のものだ。バルタン星人の額、メフィラス星人の口(に相当する部位)、そしてゼットンの顔中央と胸部。それぞれの発光・点滅は、まさに宇宙生物の不可思議さを体現している。
『ウルトラセブン』に入って、「宇宙生物の発光」は更に多彩を極める。クール星人を皮切りに、ゴドラ星人(第4話)、ペガッサ星人(第6話)、メトロン星人(第8話)など、もはや「宇宙生物の発光」自体が特別なものでなくなってゆくのだ。
勿論成田が周到に仕掛けた発光は、無闇矢鱈と言う訳ではない。ここではペガッサ星人とメトロン星人の発光について少し触れておこう。先ずはペガッサ星人だが、アンヌの部屋で饒舌に喋ったその主には、何と口に当たる造作が無いのである。その代わりかどうかは判らぬが、胸部に存在する黄色の発光部位があたかも発語・構音器官の役割を果たしているようだ。またその発光は、超文明を築き上げた思慮深い種の光さえ放っている。まさに人智を超越した宇宙生物の非常識と言うほかない。今ひとつの発光はメトロン星人だ。面長の顔の両側に配された発光部位の連なりは、まるでデコレーショントラックさながらの明滅を呈す。単に派手と言う訳ではなく、薄暗いアパート内における対話場面や夕景の中に佇むシーンなど、極めて効果的に作用として発光してみせた。
以上のように発光部位の存在は、「宇宙生物」を表現するのに極めて有効なようだ。我々「地球人」は太古の昔より、満天に輝く星々を見上げ星の世界に想いを馳せ、そして幾多の神話や伝説などを創造してきた。星々の輝きや瞬き、煌き、発光に、我々人類は「宇宙」の神秘性を見るのだ。人智の向こう側に棲息する宇宙生物の発光に合点がゆくのは、そういった地球人の事情に由来しているのではなかろうか?そしてそれはもはや、悠久の時を経て積み重ね受け継がれてきた人類の遺伝子に組み込まれた性(サガ)なのかもしれない。
高山良策の工房で制作されたクール星人は、操演担当の倉方茂雄技師が受け取りに来ている。倉方は自ら発案した様々な機電ギミックで、多くの怪獣に生命を吹き込んできた仕事師だ。ウルトラマンのカラータイマーをはじめ、発光しながら回転するバルタン星人の目、ギャンゴの回転耳、ゼットンの発光部などを見れば、倉片の仕事の程が窺い知れよう。
そもそも倉方は、『ウルトラQ』の頃より「操演」を担当していた。クール星人のように中に人が入らない怪獣については、ピアノ線やテグスなどによってマリオネットさながら「操り」で動かされる。倉方のこの「操演」によって命づけられた怪獣は数多い。
更に倉方は、着ぐるみ怪獣においてさえその「操り芸」を遺憾なく発揮している。例えば尻尾なんかはその好例だが、「人型」が有していない形状、たとえばヒレや羽などについては、倉方の「吊り」に頼るところが大きいのだ。また怪獣が命尽きる際に見せる印象深い目蓋の動きも、倉方の仕事である。
クール星人の操演モデルの納品を、先ずその倉方の手に委ねたということこそ、縫いぐるみ怪獣とは違う「吊り」モンスターのデリケートさを雄弁に物語っている。「宇宙生物」という未知なる生物の未知なる動きの重視は、こんなところからも窺い知れるのだ。そしてそれは、新シリーズ『ウルトラセブン』に賭けた意気込みの顕われでもある。
クール星人の声を演じたのは矢田耕司で、このほかにアイロス星人(第13話)やポール星人(第25話)、そしてゴーロン星人(第44話)の声もあてている。
その侵略者たちの名セリフを挙げてみよう。
どうだろうか。人類を虫呼ばわりする小憎らしい侵略者の声は、いずれも傲慢さで満ち溢れたものばかりだ。
シラミやダニ、またはノミなどの隠翅類に着想したクール星人。記念すべき『ウルトラセブン』怪獣(宇宙人)第1号なのだが、これ以外の活躍やシリーズを飛び越えての登場は一切無い。
操演モンスターの宿命か、またはセブンに瞬殺されてしまうからか。とにかく印象が薄く、不人気なようである。また如何に怪獣と言えども、「不快さ」を催させる吸血系もしくは寄生系害虫の如きが顕現しているものに対しては、みな嫌悪感を抱くということであろうか。
とにかくクール星人の同系列として挙げられるのが、ダリー(『ウルトラセブン』第31話)とブラックテリナ(『ウルトラマンレオ』第47話)の僅かに2体を数えるばかりだ。この少なさは、害虫は所詮害虫であるということの証左である。
クール星人は、地球侵略の前準備として、地球人を捕らえて標本化し、対象惑星の「主」について研鑽を重ねていた。この用意周到さから高度な知性が窺えるのだが、恐ろしいのは虫のような姿をした何者かの研究目的のために、人類が採集されてしまうという逆転構造にある。自分たちより下等と見做し、人間が動物に対して今まで平然と行ってきた、動物側からすれば残忍極まりないあれやこれや数々の蛮行。今度はそれを、人間自身が被験するのである。この有無を言わさぬ理不尽さが怖い。それまで問題無く続いていた日常が、引っくり返るその瞬間が...。
因みに「人間を標本にする」という恐怖を、これ以前のウルトラシリーズにおいて我々は既に体験している。そう、“お馴染み”三面怪人ダダが登場した『ウルトラマン』第27話「人間標本5・6」だ。こちらの方はダダの異様な外貌に恐怖の目が向けられがちだが、「人間がミクロ化され試験管状の器具に詰められている」といった、人間標本自体のビジュアル的な怖さも実は描かれている。捕えた人間を宇宙船内の無重力室に単に「閉じ込めて置く」だけのクール星人の場合とは異なり、実験器具的な物をチラつかせ「人間が標本にされる」ことの無情さを具現化したダダ。同じ“人間標本”を謳いながらも、その恐怖の有り様は対照的である。
さて「人間が動物に○○される」といった逆転劇は、SF作品ではしばしば重用される常套だ。人間社会がサルの社会に取って代わられた世界を描く巨編・『猿の惑星』なんかは象徴的で、このドラマの中で人間たちは、高度に知能が発達したサルによって「狩られ」「家畜化され」「実験対象にされ」「ペット化され」ている。未知の惑星に到達した主人公たちが草叢に分け入り、訳も分からぬまま馬に乗ったサルに駆り立てられるシーンなどは、まさに「日常が引っくり返る」瞬間の恐怖を見事映像化していると言えよう。また奇しくも本作が公開された1967年は、『ウルトラセブン』が放映された年でもあった。
時勢の風潮か、SF性を強く前面に打ち出した『ウルトラセブン』には、“人間標本”のみならず、こういった逆転の恐怖がしばしば描かれた。それまで人間が動植物に繰り返しやってきた優位行為と同様なことを、他天体に棲息する高度な知的生命体によって、逆に人間が「やられてしまう」というアベコベ。たとえば第22話「人間牧場」は、ブラコ星人の食糧を培養するために、人間がさながら家畜を養うための牧場にされてしまうといった物語だ。また第43話「第四惑星の悪夢」は、高度に発達したロボット社会が人間社会に取って代わった世界を、見事に映像化した傑作として語り継がれている。人間がロボットに絶対服従する世界。居住区は強制的に定められ、活動は制限され、ある者は奴隷同様に使役され、またある者は娯楽のために射殺され、兎にも角にも「され」「され」「され」の畳重。もはや惑星の基盤を成すエネルギーとして使用される人間たちの姿が、「有り得べき」人類の明日を暗示しているようで実に生々しい。
このようなSF作品における「逆転の恐怖」。すなわち「(逆に)人間が○○されてしまう」物語を、新シリーズの第1話に据えることから、前作『ウルトラマン』とは一線を画す『ウルトラセブン』の作品世界が見えて来るというもの。第1回放映時、巨大ヒーローと巨大怪獣の格闘に胸弾ませていたであろうテレビの前の子どもらを、見事あっさり裏切った「姿なき挑戦者」。だがしかしそのとき、もし思慮する動植物が有ったら感じるであろう恐怖を、我々人類はまざまざと思い知ることとなるのである。1939年9月6日のポーランドはクラクフ。こちらの場合は、思慮ある人間が同じ思慮ある人間に対して。号砲と軍靴の響きも高らかに、否応無しの「強制」が暴力的にやって来たのである。「まさか!」と思っていたデタラメな明日が。
さてウルトラマンと怪獣の格闘を毎週毎週手に汗握っていた子どもたちに、果たしてこの新シリーズ『ウルトラセブン』の第1話はどう映ったのであろうか。カプセル怪獣ウインダムは登場するものの、小型宇宙船との戦いに終始する。一方で母船内でセブンと対峙したクール星人は出て来て即バッサリ、アイスラッガーで瞬殺されてしまう体たらくだ。巨大ヒーローと大怪獣の格闘が無いウルトラの新シリーズ、そのスタートにおそらくは物足りなさが残ったのではなかろうか。戸惑いと物議は、大いにあったと推察される。
しかしこれが『ウルトラマン』とは一線を画す『ウルトラセブン』で、「侵略宇宙人もの」のSFドラマなのだ。無論怪獣や宇宙人との格闘も描かれるが、あくまでもそれは「必要に応じて」であり、『ウルトラマン』のように必須な見せ場でなない。ともあれ、放映から40年以上経った今日でもなお“最高傑作”の呼び声高い『ウルトラセブン』は、次のナレーションによるセリフで始まったのである。
「地球は狙われている。
今、宇宙に漂う幾千の星から、
恐るべき侵略の魔の手が...」
本エピソードの脚本を手がけたのは、『ウルトラマン』より継続してチーフライターを務めることとなった金城哲夫だ。さて新リーズ『ウルトラセブン』の第1話を、金城はどのように描いたのか?ウルトラセブン誕生の物語は?
そう、『ウルトラセブン』には『ウルトラマン』のように、誕生の物語など無いのだ。どのようにしてモロボシ・ダンがウルトラセブンとなり、何故地球を守ることになったか?この動機づけが、全く描かれていないのだ。何故か?風来坊としていきなり登場するモロボシ・ダンの、意味するものは果たして何なのか?(上原正三脚本の第17話「地底Go!Go!Go!」において、モロボシ・ダンのモデルとなった薩摩次郎青年について触れているが、地球を守る動機については一切語られていない)
ウルトラマン。その「無償で人類のために戦う」というかつて無かったヒーロー像は、「沖縄と日本の架け橋」役としての金城が理想とした「コスモポリタニズム」の投影だ。この博愛主義的ヒーローに託したものにはしかし、「どうせウルトラマンが来てくれるよ」という人類の「甘え」が潜む。その「甘え」に対して金城は、ひとつの答えを出した。
『ウルトラマン』最終話におけるゾフィーの台詞、「地球の平和は人間の手でつかみ取ることに価値がある。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん」、それがその回答である。そしてウルトラマンをも倒した強敵・ゼットンを、新兵器でもって倒したのは、ほかならぬ人類なのだ。ウルトラマンという大いなる存在に見守られながら、それでも人類は自立してゆくという姿。希望に満ち溢れた結末によって、「甘え」は止揚されたのだ。
問題は、それでウルトラマン・シリーズが終わらなかったことである。『ウルトラマン』で結論を出してしまっている以上、もはや『ウルトラセブン』ではテーマがそれ以上発展する余地を残していなかったのだ。ウルトラセブンが地球を守る動機づけに対して全く言及が無いのは、このことに起因するのではなかろうか?
そして『ウルトラセブン』という番組は制作費不足を補うために、最初からおもちゃなどの商品化を積極的に行う方針が取られていた。これによって番組の路線が決定したことは言うまでもない。ウルトラセブンや怪獣、そしてウルトラ警備隊の超兵器の勇壮な活躍をふんだんに盛り込んで、おもちゃなどの商品価値を上げることは、もはや制作側の責務である。地球防衛軍の精鋭部隊「ウルトラ警備隊」が軍隊的な性格を持つのは、そのような事情によるもので、当然これに敵対する宇宙人は「侵略者」でなくてはならないのだ。(現にこの第1話では、地球防衛軍の幹部としてヤマオカ長官をはじめ4人もの参謀が登場し、組織の軍隊的性格を強調している)
「地球人=善、宇宙人=悪」という明確な図式によって、表面化するのは「地球ナショナリズム」とでも言うべき強烈なナショナリズムだ。『ウルトラマン』というファンタジー路線では、糊塗することに成功してきた「ウルトラマン=戦争代理屋」という図式。しかしこの「地球ナショナリズム」によって、「ウルトラセブン=戦争代理屋」という構造が露骨に表面化することはもはや必至だ。
積極的なナショナリズムを否定するが、沖縄(小国、弱者、人類)の自立というナショナリズムは充足させたい。それが大いなる博愛主義の存在(大国、強者、ウルトラマン)に託した金城の思いであるが、一方でその博愛主義の中に潜む「甘え」「依存」を認めたくないという思いもある。そのような金城にとって、『ウルトラセブン』における「地球ナショナリズム」路線と「ウルトラセブン=戦争代理屋」の表面化は、二重の意味で不本意なものであったろう。
金城の、ウルトラ・シリーズに対する情熱は急速に薄れてゆく。それは、第14・15話「ウルトラ警備隊西へ (前後編)」を境として、その前後に書いた脚本の本数の差を見れば歴然だ。
『ウルトラマン』において一度は導き出した「甘え」に対する回答、すなわち「ウルトラマンという博愛主義的な大いなる存在に庇護されつつも、それでも人類は自立すべき」という到達はつまり、「人事を尽くして天命を待つ」ということである。それは結局、科学特捜隊なりウルトラ警備隊なりが勇壮に活躍することに直結していて、したがって「ウルトラセブン=戦争代理屋」的性格を露骨に示すものであるのだ。かくして金城は、悪循環に陥ったのである。
40年以上経った今でなお、「傑作」と謳われる『ウルトラセブン』。だが「傑作」であると同時に、ひとりの沖縄人・金城哲夫の苦悩の物語であったことも、また事実なのだ。
先にも触れたが『ウルトラセブン』第1話では、地球防衛軍及びウルトラ警備隊が持つ軍隊的性質の象徴として、1人の長官と3人もの参謀が登場する。ヤマオカ長官(藤田進)、マナベ参謀(宮川洋一)、タケナカ参謀(佐原健二)、ボガード参謀(フランツ・グルーベル)だ。
4人揃っての出演はこの第1話だけで、あとは各々個々適宜の出演となる。いずれも演じたのは、ウルトラや特撮物では顔馴染みの面々だ。将校の軍服に身を包んだ彼らのうち誰か1人でも登場すれば、作戦室内の空気がぐっと引き締まるのである。さすがは「重鎮」の名に相応しい顔ぶれと言えよう。
また科学特捜隊ではムラマツ・キャップ(小林昭二)による裁量ひとつで行動していたが、ウルトラ警備隊のキリヤマ隊長は長官たちの指示を仰ぐことが多かった。これによって、ときには非情な命令を隊員らに下すことも。まさに軍隊的合理主義である。
地球より遥かに文明が発達したクール星は物質資源に乏しく、高度な科学力によって他天体への略奪行為を行っている。本エピソードに登場したこの個体も、その一環として地球侵略を目論んだ。と、昭和当時の雑誌には、クール星人についてそんな記載が為されていた。
また当時「怪獣カルタ」なるものがあり、その字札に書かれた文言の「めだまくるくるクール星人」のリズム感は白眉である。
(但し『ザ☆ウルトラマン』などの
アニメーション作品については、
着ぐるみや操演に捉われない
怪獣の形状の自由奔放さは
当たり前なので、割愛させて
いただく)
尚矢田には、『アクマイザー3』のアフレコ時に、声優たちを名前で呼ばず「あんた」呼ばわりするスタッフに腹を立て、皆を率いて引き上げようとした逸話が残されている。クール星人のキャラクターからは、全く想像もつかない正義漢振りだ。
『ウルトラマン』では怪獣との戦いが最大の見せ場であったが、「侵略宇宙人もの」を掲げる新シリーズ・『ウルトラセブン』においては、宇宙人や怪獣との決着があっという間に着いてしまうものが少なくなかった。
参謀連の中でひと際異彩を放つボガード参謀。彼の劇中での片言日本語による「キリヤマ、アナタハソウ思イマセンカ?」のセリフは、ひと際印象に残る。ボガード参謀については、この第1話の出演のみとなるので、インパクトもまたひとしおだ。演じたフランツ・グルーベルはこのほかに、『ウルトラマン』第22話「地上破壊工作」で黒メガネの地底人も演じた。
虫のような姿のクール星人は、
人間を「昆虫」呼ばわりする
縫いぐるみの重力から解き放たれた、
奇態な宇宙生物の姿
元になる生物の「具象性」が際立つ侵略宇宙人
顔の位置なんぞ、おかいまいなしだ
発光は宇宙生物の方便
光る宇宙生物に、我々は星の瞬きを見る
吊られて操られて、そして息吹く生命
小憎らしい侵略者の声
忌み嫌われる害虫系モンスター
人間が採集され標本化される恐怖!
「今日」が引っくり返された「明日」は...
格闘一切なし、クール星人を瞬殺!
モロボシ・ダンは、いかにして
ウルトラセブンになったのか?
ウルトラマンからウルトラセブンへの橋渡しは?
ウルトラ警備隊の活躍は、あくまでもカッコよく
キングジョー(金城)を境に、金城は凋落してゆく
ウルトラセブン=戦争代理屋、金城は苦悩する