「あなたは油絵の 甘すぎる匂いをさせながら 売れっ子画家みたい きれいな肖像画のような 嘘ばかり描く人だから信じない」と歌ったのは戸川純。(『Dadada ism : Yapoos』より「12階の一番奥」1992年)
さて“究極”を謳い上げる本シリーズの第5弾に、クール星人がラインナップ。細部まで精緻に造り込まれたモデリング、複雑な模様を塗り分けてのけたペインティング、クリアー素材を用いた発光部の拵えなど、なるほど確かに玩具枠内におけるクール星人のフィギュアにあって、これほど心血が注がれたものは他に類を見ないであろう。「たいへんよくできました」の判が相応しい。
だが“アルティメット”である筈のこのクール星人に、ある種の違和を覚えるのは何故か?冒頭のような詞が、ふと思い浮かんでしまうのは...それはこのクール星人が、まるで「良く出来た似顔絵」のようであることに来由する。
現物を「忠実に」再現。模型製作にあたって、勿論心掛けるべき命題だ。騒がしい正面とは裏腹に、えび茶色一色に覆われたあられもない背面の意外性。そしてその表裏を分かつ潔い境界。また針状と認識されがちな尾だが、5円引きブロマイドなどのスチールで確認出来るとおり、紐状にそれはそれは長く造形されており、「知っている」者にとってはニヤリとさせられもしよう。嬉しい配慮の限りだ。
このように背面や尾などの新発見は、現物に「忠実」であったればこその恩寵と言えよう。しかしこの「忠実」への遵守は、ときとして気疎い作用を現出させてしまう。況や作り手側に、モチーフへの愛着や熱情といったものが稀薄ならば、それは必定尚更。
たとえば頭部(?)に施された黒と銀が鬩ぎ合う模様は、左右では所どころ反転して塗装されている。確かに現物においても見られる左右非対称だが、フィギュアの如きスケール・モデルについて、果たしてこれは効果的であろうか?また目の位置についてもアシメトリーが顕著だが、これはもう厭味の窮みである。更にその目の形状自体について言及すれば、本品のように楕円が本当は正しいのだろうが、皆が持っているであろう「真ん丸目玉」のイメージを、明瞭でなくともそこはかとなく匂わしても良かったのではないだろうか。
肝腎なのは、それを顕現させようとする心なり情動だ。左右非対称も楕円の目玉も、愛を以って向き合えば、活きた“ズレ”となって顕われる筈である。それを可能ならしめるのは、最早「忠実」などという域はとっくに踏襲し、そこから超越・跳躍したプラス・アルファの何某だ。フィギュアとして優秀である本シリーズのクール星人に欠けていたのは、作り手側の“魂”ではなかったか?
それは抑揚の無いポージングからも窺えよう。放射状に配された6本足の規則的堵列には、全く以って覇気に欠け、よって折角の多脚が泣いているのである。承った誂えに対して、注文どおり「6本足を設えてみました」と言わんばかりの機械的な無表情っぷりだ。
そもそも着ぐるみではなく、「吊り」によるマリオネット操演なのだから、などという言い訳は成り立たない。まるでマネキン人形を描いたような、鉛筆デッサンによる生気の無い似顔絵の硬質。「忠実」だけをよすがとしてしまったが為に、陥った肖像画の無機質、静謐。皮肉にも傀儡に堕してしまった抜け殻は、まさに「画龍天晴を欠く」のである。
その名のとおりクール(冷静)を決め込む宇宙昆虫は、込められた“魂”ひとつで以って活々と躍り出そうものを、あとひとつ、あとひとつが...“それ”さえ具わっていれば、“究極”は完遂を果たしたであろう。無念の窮みである。
2006年の「マン」編の発売以来、「セブン」編・「新マン」編・「Q&マン」編・「A&タロウ」編と、順当に逐次展開。傑出した歪形アレンジのセンスも赫々な、所謂“SD”スタイルの怪獣フィギュア。「デフォルメはちょっと...」などと二の足を踏む、食わず嫌いを一蹴してこます高水準な完成度。飾饌と賞味に堪え得る拵えの維持こそは、シリーズ牽引の原動力である。
また各弾におけるラインナップが毎回20種余りと、異常に充実。蒐集には、まさに打って付けな品数も魅力だ。射幸心を煽られる事請け合い。然りとて1回のリリースで、“人気者”の殆んどは賄えてしまう由、同タイトルにて第2弾目を企画するのは、容易ならぬといった仇も有り。例えば上記「Q&マン」編のように、変則的な方便を引っ張って来られるのなら、話しは別だが。
ならば新タイトルはどうか?と期した処で、「レオ」以降の怪獣たちじゃあ、縦しんば「A&タロウ」みたいに他と抱き併わせたとしても、そもそも知名度からして、客人の食指を動かすに能う役者の頭数揃えに窮するが落ち。なので「さすがにこのシリーズ、もう無いなぁ...」なんて、諦観していた矢先のまさかの僥倖。「レオ&セブン」。その手があったか!
レオとセブンのカップリング。成る程『ウルトラマンレオ』の作品性を惟れば、まあ無くも無い組み合わせだ。セブンの惨敗で幕明け、爾後ダン(セブン)がゲン(レオ)を扱くドラマツルギーが、少なくとも『レオ』初期の表徴であったのだから。しかしこの場合、寧ろ「時局の幸甚」と言った方が正解か。2009年12月、劇場用作品『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』の公開である。
本作にて、“ウルトラマンゼロ”なるウルトラセブンの子息が登場。曾て父・セブンが鍛え抜いた愛弟子・レオ。此度の映画では、そのレオが、逆に師の嫡子・ゼロを練成している。謂わば、師弟関係の反復ないし再生産か。こうしたあざとい物語は、勿論ファンの関心を見越しての事。斯くて特撮ヒーローズの「セブン」編第2弾は、「レオ」編と抱き併わせる誂え向きな変則的方便で、兎も角も成就したのである。台座の形状を、従来の円形から六角形に変えたのは、何の血迷いか相解からねど...。
で、その第2弾目にして、『セブン』の第1話怪獣、いや第1話星人が、漸うの陣容参画と相成った。人気の度合いは扨置き、何はともあれ「セブン最初の敵」である。愛好家であれば、是非とも揃えておきたいところだ。尚、頭部にデフォルマシオンの重きを置いた当シリーズにおいて、元より“頭でっかち”なクール星人が如き代物を象形した場合、どうしたって“SD”としての効力は稀薄となろう。単に短躯(若しくは短脚)にする処理だけで、見映えはオリジナルのものと左程イメージを違えないのだから。『ウルトラセブン』に登場する宇宙生物のように、「スーツの中に人が入る」事を前提としない、奔放な形態を晒す手合いにあっては、SD化に伴う斯かる弊害(大袈裟か)も致し方無しだ。
では、フィギュア自体の出来映えについて、二三敷衍。
先ずは、後肢(第三肢)両脚の台座接地を以って、クール星人特有の“浮遊感”とした拵えが(まるで体操競技の支持系技!)、頗る付きでステキな配慮だ。矢張り宙空に揺蕩うてナンボの宇宙ハンター。尻尾(?)で同じ事を遣って退けた場合とでは、浮遊の印象が丸っきり異なろう。尤も支柱など、台座上立脚の為の補助具を配さない方途が基本の機軸なれば、自ずとこういった手段に頼らざるを得ないのも理法か。ところでその“浮いている”尾部だが。後方へ仰け反らせた、まさに「尻尾らしく」ある佇まいが、何とも愛くるしい。確かやまなやのソフビ人形でも、同様な嬌態の拝観に与れたと記憶。ともあれ。SDならではの自己主張が、聢と其処に息衝く。
次に着彩の見せ場、ハイライト。頭部肉瘤上のギザギザ模様を、矯めつ眇めつすれば、左右で銀と黒の配色が逆転しているのが判るだろう。無論これはミスなどではなく、オリジナルの造型物でも見られる歴としたアシメトリーだ。高々のSDフィギュアに対して、律儀な拘泥わり。最早“愛”でなくって、果たして何であろうか。糅てて加えて、背面をベタッと包み覆う、小豆の如き“えび茶色”!本編では後ろを向く事が無かったクール星人。その知られざるリア・ヴューの発現に臨んで、騒々しい前面との強烈なコントラストと、そして前後を別つ潔い汀線に、不用意な吃驚を禁じ得まい。1個800円也の「アルティメット・モンスターズ」シリーズ(本頁上段参照)こそは、“背面えび茶色”の先達であったが、「前例が有るのなら、それは絶対盛り込まねば」と、鼻息荒げる作り手側の気焔が伝わって来るようだ。いやはや脱帽。
あと補綴するのならば、頓狂な面差しや、また悲しいくらいに偏平したサイド・ヴューなど、実物が纏繞させるオートモスフィアーを写し取った、模像としての大まかなオブスキュア性という事に究竟なろう。SD化に際したアレンジの卓越さ云々を取り立てようにも、何しろ「デフォルメならでは」の“活き処”が、此れと謂って見当たらないのが正直なところ。巧く出来たクール星人ではあるのだが...。やっぱり頭でっかちは、SDには不向きなのかなぁと、孤城落日の体で擱筆。
いかにもマンガ的なお茶目面。専用スタンドは附属してないので、立たせることがかなわない。ちなみにこのマンガ版では、尻部(?)から伸びる針のような構造は無い。